人を喜ばせることをしたい!
ピエロを諦め、看護師を目指す
本コーナー取材にあたり、怪しいぐらい対象者の下調べをする。プロフィールやSNSまで隅から隅まで見尽くし、自分の中の興味を最高潮にしてから取材に臨む。今回取材した渡邉さんは、私の中の「知りたい!」という好奇心をどんどんと膨らませた1人。ちょっぴりわかりづらい肩書きに「どんな活動をしている人なんだろう?」と、会う前からワクワクが止まらなかった。
「はじめまして」。白のスーツをビシッと着こなした女性が、カフェで出迎えてくれた。渡邉さんはプロコーチングの資格を取得しているのだが、この「コーチング」とはどんな仕事なのか? 手始めに聞いてみた。
「ざっくり言うと、相手にやる気を与えて目標達成させるコーチの役目をする人のことです。その人の潜在能力や、問題の解決策を自主的に引き出す技術で、目標に向かって伴走する存在。一人一人に寄り添って、途中で失速しないように背中を押し続けながら共に目標に向かって走ります。答えはその人の中にしかないので、無理強いするんじゃなく、ひたすら待つことも大切な仕事。それが『プロコーチング』という仕事です」。
渡邉さんのこれまでの生い立ちを聞いてみた。学生時代は自分に自信がなくコンプレックスの塊で、決してキラキラしたものではなかったと話してくれた。ある日、サーカスで見たピエロに感動した渡邉さん。多くの人を笑顔にするその存在に憧れを抱き「将来ピエロになりたい! どうやったらなれますか?」とピエロ宛てに手紙を書いた。すると「遊びにおいで」と返事をもらい、話を聞く中で、大道芸人を育成する専門学校があることを知った。高校の三者面談で「ピエロを目指したい」と伝え、先生や親に失笑されながらも本気でその道を目指した。しかし、運動神経がないという理由で仕方なくピエロになることを諦めた。「でも、私の中で人を喜ばせることがしたいという思いは強くて…。それを模索していた時、青年海外協力隊でボランティア活動をしたい!と思ったんです。そのために看護師になろうと思い、高校3年の秋に看護師を目指すことを決めました。成績が悪すぎて、担任の先生は『今頃、なにバカなことを今頃言ってるんだ!』と大反対でした。でも副担任だった恩師は『人生一回しかないんだから、挑戦してみたら?』と無謀な選択を応援してくれたんです。それから死に物狂いで勉強しました」。12校の看護学校を受験するも全て不合格。しかし1校だけ補欠合格し、滑り込みで看護大学に入学し、みんなに奇跡だと言わしめた。
看護学校卒業後は、県内の厚生年金病院に就職が決まった。「高校時代も楽しくなかったし、看護学校も滑り込みセーフで入学。正直レベルの低い学校だったので、就職してからもずっと自信がなくて…。でも、その劣等感のおかげで人一倍頑張って働こう!と思えたんです。まずはナースコールを誰よりも先に取ることを実行しました」。リハビリを中心に行うその病院で5年間働き、職場が大好きになった渡邉さん。患者さんの自立を一番に考え、患者さんに寄り添う姿勢を学び、渡邉さんの看護師としてのベースを築いてくれた。と同時に、夢だった青年海外協力隊の試験も受け続けていた。夢目前、最大のチャンスがやってきたその年に妊娠が判明。当時お付き合いしていた現在の旦那様と26歳で結婚し病院を退職、同年に第一子を出産した。「交通事故みたいなものですよね(笑)。青年海外協力隊に入りたいがために看護師になったのに、子どもができて諦めることに…。海外に行くために心と体を強化したいとトライアスロンをやったりして準備万端の状態だったんですけどね。ほんと、人生って何があるかわかりませんよね」。夢を諦め、看護師の仕事も辞め、出産後は子育てをしながらご主人の実家の家業を手伝うことに。木工所と建具屋さんを営んでいたため、ヘルメットをかぶり現場に出ていたこともあった。
医療現場が笑顔になれば
患者さんも元気になるはず!
しかし、精神的に家業の仕事を手伝うことが困難になり、看護師としての復帰を決めた渡邉さん。市内の救急病院への再就職が決まり看護師として復帰を果たした。しかし、中途採用でいきなり常勤という優遇された渡邉さんへの妬み嫉みも生まれた。そんな逆境の中でも、渡邉さんは「誰よりもナースコールを早く多く取る!」を実践。院内で一番クレームが多かった泌尿器科に配属されるも、患者さん一人一人のキャラクターを覚え外来を切り盛りし、クレームを無くした。就職して1年目に管理職試験に合格し、副師長にキャリアアップ。
「病院で働くスタッフが笑顔になれば、患者さんも元気になる」という思いで、職員のモチベーションをアップするためにプロコーチングの資格を取得。同時に、患者さんたちに喜んでもらえる活動をしたいと「パセリの会」を発足した。「病院では形ばかりの演奏会が行われていたんですけど、病室から出られない患者さんは聞くことができなくて…。その人たちのために、全盲のバイオリニストの演奏を病室に届けるコンサートを開催しました。涙を流して喜ぶ患者さんもいましたね。その延長線で『恋するフォーチューンクッキー』の動画配信を、病院のプロジェクトとして始動しようと動き始めました。当時、病院としては初の試みだったと思います。もちろん反対も多かったですけど、院長に直談判して8ヶ月かけて成功にこぎつけました。病院のチーム力を上げたいという思いと、職員が楽しそうに踊っているのを見て患者さんたちも喜んでくれるのでは?という気持ち、そして職員が親御さんに動画を見せることで喜んでくれたりも。リクルート活動にもつながりましたしね」。
プロジェクトは大成功に終わったが、当時上司だった師長は「そんなことをするあなたの神経がわからない!」と最後まで認めてはくれなかった。師長の元で働く職員が立て続けに7人辞め、病院内でも問題視されていた。この状況を何とかしてほしいと、渡邉さんに白羽の矢が立った。
「私を捨て駒にしないでください!って言ったんですけど、求められるとメラメラと燃える性格で(泣)。そこからは、なんとか師長と向き合おうと努力したんです。けど、関わろうとすればするほど鎧を厚く纏うタイプの方でした。その鎧を剥がすのは容易ではなかったです。自ら転勤することになって事なきを得たんですが…」。職場に平穏が訪れると思っていた矢先、それを上回る看護部長が就任。大学サイドから、渡邉さんにコーチング論の指導をしてほしいという依頼が病院に届いたのだが、看護部長は渡邉さんに相談もせず、あっさりと断ってしまった。
「どうしても、コーチングを通じて、職場を笑顔にすること、学生の視野を広げ、なりたい自分になる、一歩踏み出せる大人になって欲しいと思ったんです」。10年間働いた病院に辞表を提出したその日、高校時代の渡邉さんの背中を押してくれた恩師から一本の電話が。「学校の看護科の教員を探してるんだけど、うちの学校に来ない?」。渡邉さんは運命を感じた。
「給料は看護師時代の半分。経済的には正直厳しかったですね。ちょうど同じ時期に違う高校からもオファーがあったんです。給料はそちらの方が良かったんですけど『人生の選択において、遠い方を選べ』という教えが私の中にずっとあったので、今回も最初に声をかけてくれた恩師の高校を選んだんです」。
患者さんに「ありがとう」と言ってもらえるナース時代とは違い、やって当たり前という教師という仕事。「1年間は、24時間体制で生徒・保護者に向きあう先生たちのモチベーションを必死に探ってましたね(笑)正直、感謝もされない仕事をする意義が分からなかった。だけど、生徒たちと触れ合っていくうちに可愛くなってきて、この関わりのために先生たちは時間を捧げることができるんだって、2年目にして分かってきました。病院で働いていた時、実習生の受け入れもしていたんですが『今の子どもたちは、なんでこんなにメンタルが弱いんだろう』とずっと気になっていたんです。生徒たちと関わり、やっぱり根っこが大事なんだなと実感しました。根っこをちゃんと育てて外へ送り出せば、どんなにストレスがかかってもしっかり芽を出し実をつけ花を咲かせられると感じました。大人の関わり方で子どもたちも変わるはずだと確信して、今の渡邉陽子JAPAN を立ち上げました」。
医療現場と若い世代を繋ぎながら
高校生、そしてお母さんたちを元気にしたい!
去年学校を退職し、現在は別府大学で人間学科コーチング論の非常勤講師を務めつつ、セミナーや講演会などで、渡邉さんの思いを伝える活動をしている。現代の医療現場では、看護師は電子カルテを入力する。患者さんの目も見ず対話も少なく、画面だけを見ている看護師も多いと渡邉さんは言う。「時代が変化しているからこそ、人間らしさを失わないようにするにはどうすればいいのかを学生たちに伝えたいんです。そして、学生たちのいい部分も病院サイドに伝えていきたい。看護学校で多くの生徒と関わってきたからこそ、若手の育て方を実例を挙げて病院に伝えることができる。医療現場と若い世代をつなぐ橋渡しの役目ができたらいいなと思っています」。
そして、新たなライフワークとしてボランティア活動「全国高校生応援プロジェクト」を始動した。全盲のバイオリニスト・穴澤雄介さんと、高校生たちにメッセージを伝えるべく、全国を奔走している。「コンプレックスの塊だった高校時代の私の実体験も含め、命の大切さやモノの見方などを高校生に伝えたいんです。100校までは無料で行こう!って決めてるんです。穴澤さんも高校の時に全盲になり、私も高校で人生が大きく変わりました。彼の演奏とともに、私が伝えたいメッセージを高校生に発信していけたら嬉しいですね」。
取材の途中で、学校帰りの息子さんがやって来た。高校3年生という年頃なのに、渡邉さんの隣に座り取材が終わるのを待ってくれた。その行動一つ一つがとても自然体で、温かい親子関係が築かれていると感じた。「看護師に復職した時、息子は幼稚園の年長ぐらいでした。預け先が見つからず、大分市が運営する一時保育・託児サービス「ファミリーサポート」に何度もお世話になりました。共働きだったので、あの支援がなければ私は仕事はできなかったと思います。息子が熱を出してるのに、仕事に行かなければならなかった時『患者さんが待ってるから、仕事に行っていいよ』って息子が仕事に送り出してくれた時もありましたね(一同、涙…)。かわいそうな思いをたくさんさせているけど、でも分かってくれてるんだ…と感じました。だから、今は、息子がやりたいことは全部やらせてあげたい、全力応援したいと思っています」。
渡邉さんの今年の目標は「最高の講師として活躍すること」。実は、異常なまでの緊張しいで、人前で話すのが大の苦手だとか。「やりたいことは山ほどあるんですけど、まずは、一歩踏み出せない人の背中を押したいです。同じ母親として、いろんな悩みを抱えるお母さんたちが元気になる講座にも力を入れています。次回は3月8日です。講評につき定期講座として計画しています。お母さんが元気じゃなかったら、子どもも元気じゃなくなりますもんね!」。一見タフなのに、とても繊細で優しさが溢れている渡邉さん。これから「ママのままプロジェクト」でも、大きな力になってくれる予感がします!尚、講座の予定などは、渡邉陽子JAPAN で検索いただくとご覧いただけます。
この記事のライター:安達博子
「正直、これまでの原稿の中で1.2位を争う苦戦をしました(涙)。紆余曲折の渡邉さんの人生のどこか一部分を切り取ってしまうと、渡邉さんの人生じゃ無くなりそうな気がして…。だから、かなりの長文になってしまいましたが、あしからず。渡邉さんと話していると、とにかく元気が湧いてくるんです! 「こんなこと、話しても大丈夫?」というこちらの心配もよそに、包み隠さずにいろんなことを話してくれたこと感謝です。お酒は飲まないのにホルモンが大好きというお茶目なこだわりも、私、好きです。これから、本プロジェクトの支えになってくれそうな、大きな存在の人に出会ってしまいました。全ての経験は人生の糧になる!ということを身を以て教えてくれる、スケールの大きな女性でした。これからもどうぞ、末長くよろしくお願いします!」