MAMA STYLE様々なママの様々なスタイルを
ご紹介します

2020.03.03

“地に足がついている” 今が本当に楽しい
そう思えるのは、あの時の経験があるから

ワタナベマスミさん

今回のママ:
ワタナベマスミさん・43歳・鹿児島県出身・大分市在住
(中学2年生・小学校6年生・4年生・1年生の2男2女の母)

今回は、自宅でヨガ教室を行う「おうちヨガm/s」のヨガインストラクター・ワタナベ マスミさんのストーリー。先日開催された「Match Work」事業の合同説明会ではコンシェルジュとして。またFM大分「ままともラジオ」のままともメイト第1期生としてラジオを盛り上げてくれたワタナベさん。当プロジェクトに積極的に楽しんで参加してくれる、心強い存在でもあります。

転勤先で育児ノイローゼ気味に
精神的にも限界ギリギリだった日々

昨年末に開催された、働きたい女性をサポートする事業「Match work(マッチワーク)」の合同説明会。会場内で、来場する女性たちに寄り添い企業との橋渡しをしてくれたコンシェルジュとしてイベントのお手伝いしてくれたワタナベさん。参加者の皆さんにさりげなく寄り添い、まるで昔からの知り合いのように親身になって女性たちの話を聞いてくれていた姿が鮮明に記憶に残っている。当日お会いした時はご挨拶程度だったが、太陽のような明るい存在の女性だな…という印象だった。その後、この「ママスタイル」でワタナベさんを取材することとなった。

ヨガ教室を開いているというご自宅におじゃました。彼女の職場でもある、ほの暗い和室はとても居心地がよかった。防衛省に勤める自衛官のご主人は東京へ単身赴任。ワタナベさんはほぼワンオペ状態で4人のお子さんと、この借家で暮らしている。 

小学校から高校までは出身地の鹿児島県で暮らしたワタナベさん。高校卒業後は勉強嫌いだったため大学進学への道は選ばず、接客業に関わりたいと東京の日本料理店に就職。そこで3年間接客業の作法を学んだ。その後、鹿児島に戻り病院の受付事務の仕事に就く。自衛隊関係者が多く来院していた病院だった職場で、ご主人と出会い28歳で結婚、29歳で第一子を出産した。子育てに専念するため仕事を辞め、転勤の多いご主人と全国を転々とする生活が始まる。鹿児島から久留米、千葉県松戸、神奈川県横須賀市、宮城県…1年から2年スパンで、転勤した。

「長女が幼稚園に入園する直前に久留米に引越し、それが一番最初の転勤先でした。千葉に移る時には4人目を妊娠していました。生後4ヶ月くらいで、次の勤務地の横須賀に引っ越しました。とにかくめまぐるしい日々でしたね」。



千葉県の松戸に移り、官舎に住んでいた時は地獄の日々だったとワタナベさん。

「精神的にもあの頃がピークでした。幼い子どもを3人抱えて、お腹も大きくて。育児ノイローゼになりかけの状態でした。毎日2時間近く満員電車で通勤していた主人は疲れ果てて帰ってくるし、私も育児でいっぱいいっぱいで、お互いを思いやる余裕さえなかった。家の中もめちゃくちゃで、主人と取っ組み合いの喧嘩をしたこともあります。私はこれからどうしたらいいんだろうって…窮地に追い込まれてましたね」。

そして、震災から3年経った宮城県にも。海沿いの集落はまだ震災の後が色濃く残っており、その風景も目の当たりにした。

「雪が多く寒い生活になかなか慣れることができなくて…。主人はとにかく忙しく家にいる時間さえなかったので、スタッドレスタイヤに変えるのも私一人。小さい子どもを抱えて泣きながらタイヤを交換したりしました。主人は、3ヶ月間のうち家に帰って来られるのが5日間だけというハードな状況で、お休みもほとんどなかった。仕事に行く前、玄関にずっと座ってなかなか仕事に行けない背中を見て『あなたには応援団が5人いるからね』って背中をさすって送り出したこともあります。重い腰をやっとあげて、吹雪の中、自転車で仕事に向かう主人の後ろ姿を思い出すと、今でも涙が出ます…」。

次から次へと移り住む、慣れない土地での生活。激務で疲れ果てたご主人には頼れず、ほぼ一人で4人の子どもの育児を担っていた。自衛隊の官舎に住み、そこでは、追い討ちをかけるように、ママ友間でのイジメのターゲットになったこともあると、辛かった話を包み隠さず話してくれた。なりふり構わず、毎日をただただ必死に過ごしていた当時の彼女の気持ちを想像するだけで、胸が張り裂けそうになった。

ワタナベマスミさん

どこかに根付きたいと選んだ大分
今いる場所はとても恵まれています

宮城県の次の勤務地が東京とわかり、さすがに4人の子どもを抱えて東京で生活するのは無理だと思ったワタナベさんは、ご主人に九州に帰りたいとお願いした。

「主人の実家が佐賀関なんです。主人のお兄さんは亡くなっているので、実質主人が跡取り。昔から代々続く家なので、いずれ子どもたちがその土地を守って後を継いでくれたらなという思いもありました。とにかく、転々とする生活を送ってきたので、子どもたちをどこかに根付かせてあげたいという思いが強かったですね。私の実家がある鹿児島を選ばなかったのは今でも不思議ですけど、でも迷いはなかった。嫁としての責任も感じていたかもしれません」。転勤が決まり、引っ越し先の物件を見に飛行機で大分へ。内覧したのは、現在住んでいる家のみ。一軒見ただけで即人不在の中、子決した。これも不思議な縁ですよね。隣に住む方は、実は季節労働者として働く私(制服販売店で多忙期のみ短期のアルバイトをしている)の上司でもあるんです。子どもたちを本当の孫のように可愛がってくれて、私が体調が悪い時にはご飯を作って持ってきてくれたり。本当に良くしてもらってるんです。主人が家にいないし、我が家の一番心強いサポーターでもあります。“この家にしなさい”って呼ばれてたのかもしれませんね」。



現在は、そんな周囲のサポートも受けながら、4人のお子さんと暮らし、無理のないペースでヨガ教室を開いている。転勤する先々でヨガ教室に通っていたワタナベさん。せっかく教室にも慣れ、人との縁もできて…という時に転勤になるので途切れ途切れだったヨガとの関係。大分に移り住み、心にもやっと余裕ができて自分がやりたいことを考えてみたら、思い浮かんだのは“ヨガ”だったそう。

「私が好きなことって何かな…って考えた時、人と関わることだと改めて思ったんです。横須賀の時に出会ったヨガの先生がとても素敵な方で、こんな生き方をしたいなぁと憧れていたんです。大分でもそういう先生との出会いがないか、いろんな教室やスタジオに行って体験したら、いい先生との出会いがあって。あった途端、泣いてしまったんです私。それで、先生に『すぐに次の養成を受けたい』とお願いしました。主人には事後報告だったんですけど『もう心は決まってるんだよね。あなたが笑顔になれて、それで子どもたちと笑顔で接することができるんなら、頑張って。応援するから』と言って後押ししてくれました。私の両親はとても厳しい人で、ずっと『あなたはできないんだから!』と言われ続け、それに反発して育ってきたんです。だから自分を肯定してくれる主人の言葉に心からありがとうと思いました。初めてそんなことを言ってもらえたんです。こんな主人、どこを探してもいないと誇りにさえ感じました」。

遠く離れた場所で、毎日職場という戦場で戦っているご主人。そんな父親の姿は指針となって、子どもたちを導いてくれているとワタナベさんは言います。

「お父さんは、あなたたちに会いたくても会えない。でもお父さんはそんな中で頑張っているんだから、あなたたちもそれぞれ、野球に吹奏楽に頑張りなさい!と。自分で自分の道を選んで、進みなさい。そして、いつもあなたたちを信じているよ、と伝えています。主育という大役を担っていますからね。とはいえ、時には泣きながら喧嘩するし、怒鳴ることも多々(笑)。でも私も生きてるし、人間だから、そのままの姿も見て欲しいので隠さないでありのままの姿をさらけ出しています」。

ワタナベマスミさん

たくさんの夢が叶ってきたけど
一番の夢は家族が一緒に住むこと

子どもが大好きというワタナベさん。これからやってみたいことは、未就学児のお子さんとお母さんが一緒に楽しめるヨガ教室。気軽に気負いなく参加できる場所を提供したいそうだ。

「苦しい辛い思いをたくさん経験してきたので、今大変な思いをしていたり悩んでいる人たちがいたら『大丈夫だよ』って言ってあげられる存在になりたい。不安に思う時間が勿体無いから楽しいことを考えた方がいいよ!って伝えてあげたいです。子どもも4人いて本当に大変だったけど、今まできつかった分、これからは楽しいことがたくさん待ってる気がします。苦労も四倍だったかもしれないけど、思い出も四倍。今は毎日が本当に楽しいんです!」。勉強をしてラジオのレポーターにもチャレンジしたいと、やりたいことが山積みだと教えてくれた。「今の状態ってすごく恵まれていると感じます。ストレスフリーだし、毎日楽しいし、地に足がついている感じがするんです。夢がどんどん叶っているから、今考えるとあの時の経験も無駄じゃなかったと思えますね」。

最後に「あ!まだ夢がありました!」と思い出したかのように、嬉しそうに話を始めたワタナベさん。「夢は家族みんなで一緒に住むこと。主人の仕事が海外駐在になったら、一緒に行くって決めてるんです。もしインド転勤とかになったら、ヨガも勉強できるし! 娘は『私は行かないよ』って言ってますけどね(笑)」。

一番最初に出会った時に感じた、太陽のような存在感。底抜けに明るいワタナベさんの影に、こんなにたくさんの出来事があったとは想像もしていなかった。

昭和の名曲、海援隊の「贈る言葉」の中に “人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから” という歌詞がある。傷ついたり、挫折したり、苦労したり、たくさん泣いた人は、人に優しくできるんだと、この一節が私は昔から好きだった。取材中に曲が頭に浮かんだのは、彼女の人生とリンクしたからなのかもしれない。

当時は、先が見えない暗いトンネルの中で、もがき苦しんでいただろう。でも、今こうやって「楽しくて仕方がない」と言える毎日を送り、キラキラと輝いているワタナベさん。「私もたくさん泣いてきたから、一人でもそういう思いでいる人たちの支えになれたら、私も救われます」。底抜けに明るい満面の笑顔が、周りの人たちを太陽のように明るく照らしている理由が、わかった気がした。

ワタナベマスミさん

この記事のライター:安達博子

ここにはとても書けないような壮絶な経験もたくさん聞き、絶句しました。今までの取材の中で1位2位を争うくらいととても重い内容でした。まだまだ若いのに、波乱万丈の人生を歩んできたワタナベさん。だからこそ、太陽のような存在感を放っているのだと心底納得しました。ご主人や家族への愛は海のように深く、家族が離れ離れでも、こんなに心が通い合っている家族もあるのだと羨ましく感じました。最後に話しくれた夢「家族で住みたい」という言葉にもウルっときました。日常にあるごく当たり前のことが幸せであるということを教えてもらった気がします。どんなことでも包み込んでくれる懐の大きなワタナベさん。これからも「ママのまま」を好きでいてくださいね。また楽しいこと一緒にしましょー!

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