MAMA STYLE様々なママの様々なスタイルを
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2020.04.28

それぞれがそれぞれの道を歩き
ハッピーな毎日が過ごせたら

吉永佐絵子さん

今回のママ:
吉永佐絵子さん・51歳・大分市出身・大分市在住
(大学4年生・3年生の1男1女の母)

今回は、病院のトレーニングルームで市民の健康を守る「健康運動指導士」として勤めつつ、ズンバインストラクターとしてズンバを教える活動もしている、吉永佐絵子さんのストーリー。長年ソフトボールに打ち込んだスポーツウーマンの吉永さんは、太陽のように明るく、会うだけで元気を与えてくれる存在です。今のお仕事、子育てのこと、そしてズンバの魅力を熱く語ってくれました。

ソフトボールに打ち込んだ青春時代
儚く散った、体育教員への道

お会いした瞬間、直感的に「同じ匂いがする」と勝手に親近感を抱いた。それもそのはず、同じ超体育会系出身者だった。

中学時代からソフトボールをやっていた吉永さん。中学では途中で辞めてしまったが、大分県立大分南高等学校へ入学し、再びソフトボール部へ入部。体育教師を目指し、大学は東京女子体育大学へ進学した。

「大学では友達が一人もいなくて。大分から出てきて心細かったのもあって、ソフトボール部に入部を希望したんですが断られたんです。後で知ることになるんですが、実は日本一強いチームだったようで…。断られてもしつこく入部を懇願したら、福岡出身の先輩が『私が世話するから入部させてあげて』と言ってくれ、入部できたんです。ソフトボールマガジンの表紙を飾るような有力な選手が揃ったチームの中、4年間ソフトボールを続けました。知らぬが仏…ですね(笑)」。



大学での過酷なソフトボール人生を経て、大学卒業後は大分に戻った。体育教師を目指し、5校ほど学校の臨時教員を経験したが、採用試験ではことごとく不合格。それでも体育教員になる夢は諦めず、27歳で結婚した後も臨時教員を続けようと思っていた。しかし現実は想像以上に厳しかった。

「結婚したら、もう子どもを産めばいいのに…と言われました。今だとかなりの問題発言ですけどね。臨時で採用した女性が結婚後すぐに妊娠して辞めるので、すぐに代わりが効くよう“臨時の臨時”みたいな採用があったくらいです。私はもう、臨時の教員としてすら教壇に立つことはできないんだな…と感じ、教員の夢を諦めて、方向転換をしました」。

そのタイミングで、市営体育館の臨時職員の採用募集があり就職。大分成人病検診センターのトレーニングルームで求人があることを知り、体育大学での経験も生かせるだろうと仕事をしていたが、29歳で第一子を妊娠。仕事は一旦辞めることにした。

吉永佐絵子さん

ないなら私が作る!
親子で参加できるエクササイズをスタート

社会人になってもソフトボールは続けていた吉永さん。子育てが始まると自分の時間もなくなり、運動する機会もめっきり減っていった。ある日、体調に異変が。

「今までそんな経験はなかったのに、肩こりとか、手の痺れとかが出るようになってきて。これは運動しなきゃダメだと、子連れで参加できるスポーツを探したけどなかなかなくて…。『だったら私が作ろう!』と、親子で参加できるママビクスを始めたのが今から17年ぐらい前かな。下の子が3歳になる直前でした。子どもと一緒にできる、お母さんのためのエクササイズ教室です。ここで(取材場所の大分南部公民館)スタートしたので、思い出の場所でもあります」。今でさえ、子ども連れて参加できる習い事は増えた気はするが、17年前はまだ珍しかったため子育て中のお母さんたちにも好評だった。



そのうち、同じ敷地内にあるこどもルームの先生から「こどもルームでも教えて欲しい」と依頼があり、ボランティアで教えることに。評判は口コミが広がり、多い時には県内5ヶ所のこどもルームでママビクスを教えていることもあった。「いろんな人たちとの出会いもありました。校長先生上がりで子どもルームの所長になった方がいて、最初は上から目線であまり好きではなかったけど、そのうちお孫さんができて180度変わった方がいました。その所長さんとある日、お茶を飲んでた時に『先生はなんのためにこの活動をしているの?』と聞かれ、面接みたいで緊張しながら『来てくれる方の笑顔のためですね』と答えたら、それにすごく感銘してくださって。お孫さんによって人ってこんなに変われるもんなんだと、子どもの力の偉大さを知りました。私もいろんな経験をさせてもらいましたし勉強になりましたね」。

吉永佐絵子さん

運動指導専門の資格を取得
そして、ズンバとの出会い

お子さんが小学校に上がるタイミングで、現在仕事をしている、戸次の天心堂へつぎ病院に就職。吉永さんが40歳の時だ。体育大学を卒業したという実績と教員免許しか持っていなかった吉永さんは、「健康運動指導士」の資格を取得することを決意し猛勉強する。健康運動指導士とは、 スポーツクラブや保健所・保健センター、病院、介護施設などにおいて、人々の健康を維持・改善するために、安全・適切な運動プログラムを提案・指導する専門家で、厚生労働省が認定している資格だ。

「スポーツ・運動の世界では国家資格がないんですよね。この健康運動指導士が、それにより近い厚生労働省認定の資格だったので取得しようと頑張りました。今年でちょうど10年目になります」。

お子さんも小学生高学年に上がる時期で、実家のサポートを受けながら、時には4、5日間福岡に泊まり勉強に打ち込んだことも。そして41歳でめでたく健康運動資格士の資格を取得し、現在はパートから社員に昇格した。吉永さんが務める天心堂へつぎ病院は、県下では3つしかない運動療法施設の一つ。吉永さんの熱血指導はきっと、多くの人たちの健康増進に力を与えているに違いない。



そんなある日、何気にテレビを見ていた吉永さんの目に飛び込んで来たのが、ズンバだった。

「アメリカでズンバのインストラクターをしている日本の女性を紹介してた内容だったんですけど、外人さんも、太ってるおばちゃんも、みんな本当に笑いながら楽しそうにカッコよく踊ってて。早速大分のスポーツクラブに習いに行ったら、先生が私を引っ張って行って一緒にスタジオの正面で踊ることになって、それがすっごく楽しかった。一緒に行ってた友達が『先生と同じくらい踊れてたよ』と言ってくれて、それに気を良くして(笑)私も教えてみたいなと思ったんです。それから福岡のズンバの先生のところに習いに行き、インストラクターの資格を取りました」。

テストでは2日間踊りっぱなしで体力的にも限界だったが持ち前の根性で乗り切った。インストラクターの資格を取得できたのは43歳の時だった。どこまでも本当にパワフルだ。現在も、ズンバを取り入れた運動療法を病院で教えたり、親子でズンバを楽しんでもらえるボランティア活動をしている。

吉永佐絵子さん

子どもたちは私とは違う
いい意味での諦めは、お互いを認め合うこと

実は離婚を経験している吉永さん。女手一つで2人のお子さんを育ててきた。ここには書ききれない苦労がたくさんあったと思うが、それはポジティブな離婚だったと話してくれた。

「子どもたちと真正面から向き合ってきたと思うから、グレずに育ってくれたと思います。悲壮感はない前向きな離婚だったかな」。子育てでは「子どもたちと私は違うんだ」と、早い時期にいい意味で諦めたそう。娘さんは音楽へ、息子さんが芸術関係へと、好きなこと大学で学んでいる。「私はスポーツだったけど、2人はまた違う世界にいます。お互いの世界に踏み込まず、認め合うことが大事。その分野でご飯を食べていくのは大変だとは思うけど、でも好きなことを仕事にするのが一番ですもんね。地に足をつけて、それぞれが、それぞれの道を進めていけたらいいな」。

50歳を超えた今、これからの目標は?

「ズンバには世界に150名いるズンバエディケーショナルスペシャリストという特別なインストラクターがいるんです。本当は私もそれになりたかったけど、年齢的にもう無理だと思うので、スペシャリスト達を大分に呼んでズンバの魅力を大分に広げたい。そしてみんなでハッピーになりたいです!」。

インタビュー中も、時折ズンバを披露してくれた底抜けに明るい吉永さん。見ているこっちもなんだか楽しくなって笑顔になる。好きなことも、仕事も、子育ても全力で楽しんでいる吉永さんの後ろ姿は、お子さん2人にとって何よりの人生の指針になるだろう。

吉永佐絵子さん

この記事のライター:安達博子

突然ですが、吉永さん大好きです! 人生を直感的に選択し、どんなに大変なことがあっても胸を張って堂々とポジティブに歩いてきたパワフルな女性でした。たくさんの勇気をもらった気がします。子育てに関しては大先輩。私の悩みなんてちっぽけに感じて、いつか悩んだ時は「大丈夫!大丈夫!」とガハハと笑って、背中をベシッと叩いて気合を入れて欲しいです(笑)。取材時はまだ今のようにコロナが深刻ではありませんでした。病院に勤務されているので色々と大変なことも多いと思いますが、持ち前の明るさでたくさんの人たちを元気にしてあげてくださいね。まだ実現してませんが、コロナが落ち着いたらいつか吉永さんと一緒にズンバを踊ってみたい! そして、ラテンのパッションを叩き込んでほしいです!(笑)

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