MAMA STYLE様々なママの様々なスタイルを
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2020.12.08

大好きな野球と、看護師の仕事
まだまだやりたいことがいっぱい!

中野美穂さん

今回のママ:
中野美穂さん・43歳・臼杵市出身・大分市在住
(中学2年生・小学校6年生・4年生の3人の男児の母)

看護師歴23年。大好きな野球に囲まれて、多忙な毎日の中で人生を思い切り楽しんでいる様子の中野美穂さん。野球を頑張る3人の息子さんたちをサポートしつつ、医療現場で奮闘する中野さんのパワーの源とは?

実習でのミスからレッテルを貼られた学生時代
集中治療室配属の過酷な日々

少年野球の監督を務めるお父さんと、野球に没頭するお兄さんを幼い頃から見てきた美穂さん。休日は兄の試合に同行し、ある意味野球漬けの日々を過ごした。その影響もあってか野球が大好きになり、高校時代は野球観戦に行ったり、好きな選手を追っかけたりと、野球一筋の青春時代を送る。

「高校卒業後は文芸学科とか国文科の大学に行って、甲子園の取材ライターになりたかったんです」。ところが担任の先生から「お前は看護婦に向いている!」と言われ、気づけば東京の慈恵看護専門学校に入学することに。

「小学校6年生の時にバセドー病になって県病に入院したことがあるんです。その時に憧れの看護師さんがいて。私が言葉にしないことも察してくれて、まるで天使のような看護師さんだったんです。本来、看護師になるつもりはなかったけど、その思い出と、担任の先生の強力なプッシュ、あと東京に対する漠然とした憧れもあって、いつの間にか東京の看護学校へ進む道を選んでいました」。



高校卒業後に入学した慈恵看護専門学校は、日本で最初の看護師教育機関として設立された歴史ある学校で、東京タワーの近くだった。

「専門学校に3年間、病院勤務3年間で6年間を東京で過ごしました。看護学校の時、患者さんを見て、情報収集をして、看護計画を立てる実習があったんです。その実習の時、一つでも多くの情報を得ようと、担当の患者さんにいろんな質問をしてたんです。その時、患者さんが大量の吐血をして…。幸い命は助かったんですが、それ以降「河野美穂さん(当時の旧姓)は、患者さんを見ることなく、自己中心的な人』みたいなレッテルを貼られ、実習にも落ちてしまいました。それ以来、ずっと挫折感を抱える日々でした」。

その後、なんとか実習にも合格し学校も卒業。21歳で国家資格を取得し、慈恵医科大学付属病院系列の病院に就職。晴れて看護師の道へ。ところが配属されたのは、集中治療室(ICU)。生死を彷徨う重症患者が運ばれてくる、かなり過酷な現場だった。ある時、心筋梗塞の患者さんがICUに運ばれてきた。入院時は普通にお水も飲め、会話もしていた。心臓の血管を広げる治療のためICUを出たが、戻ってきた時は亡くなっていた。それが、美穂さんが看護師になって初めて死に直面した出来事となった。先輩の看護師にその後「どういう気持ちだった?」と聞かれた美穂さんは、冷静に現場を仕切る看護師さんの働きを湛えた。その答えを聞いた先輩看護師は「看護師になって1年目のあなたが、人の死を目の前にして、そんなに冷静になれるわけがないでしょ!なんでそんな人間になってしまったの?人間と人間が関わる仕事なんだから、もっと素直に悲しんでいい!」と怒号。美穂さんは号泣した。

「実習の失敗からずっとレッテルを貼られ、辛かったという話も先輩が聞いてくれて『じゃあ、頑張ろうよ』と言ってくれたんです。だけど、ICUは患者さんの病状が急変する病棟。高度な知識や経験が必要で、そこに追いつきたくて勉強して勉強して、でも追いつけなくて…。本当に辛かった3年間でした。1億円もらっても、あの3年間には戻りたくないですもん(笑)」。今でもテレビなどで東京タワーを見ると、当時のことを思い出して涙が出ると美穂さん。しかし過酷な3年間の経験は、その後の美穂さんを助ける大きな基盤となっていく。

中野美穂さん

3人の子育てに奮闘しつつ
面白かった大阪での看護師時代

そんな日々の中でも、恋愛を謳歌していた美穂さん。上京して3年目の頃、同じ臼杵高校の同級生だった現在の旦那さんから東京に就職するという連絡をもらい、そこから自然とお付き合いが始まった。

「彼が東京に来て1年経った頃、福岡転勤になってしまい…。私は3年間は東京で働くと決めてたので、1年間は遠距離恋愛を続け、その後、旦那を追いかけるという人生が始まりました。福岡でも看護師の仕事はしてたんですが、その1年後に大阪転勤になり、大阪にもくっついて行きました。3ヶ月ぐらいゆっくりしようかなと思ったけど、性格的に無理で、すぐに大阪の総合病院に就職しました。そこでも集中治療室での勤務だったんですけど、大阪での10年間は楽しかったです!」。

看護師としてのある程度の経験も積み、余裕が出てきた頃だった。美穂さん曰く「自分が一番ギラギラしていた時代」。加えて、大阪ならではの面白いエピソードも話してくれた。「ある高齢のおばあちゃんが危篤状態になって、万が一の時の延命措置のことを話したいから、おじいちゃんだとちょっと不安だからご家族を呼んで、と先生に頼まれたんです。それでおじいちゃんにその件を伝えたら娘さんがいるということで、娘さんを呼んでもらったんです。約束の時間に面談室に来てもらったんですけど、ドアを開けてみたら、座ってたのが人形のポポちゃんで…。先輩に『やばいっす。人形が来てます!』って言ったら『そんなん、先生に人形が来てますって言われへんやん。そのまま先生入れたろ』ってことになり、先生入室。先生はドアを開けて、すぐ閉めて『お前、人間って確認したんか!』って。大阪ってそんなんやったんですよ(笑)」。嘘のようで本当の話。涙を流して笑わずにはいられなかった。「草持ってきて『漢方作ってや』とか言ってくる患者さんとかもいたりして(笑)。私の肌に合ってたし、ずっと大阪にいていいなと思ってました」。



その後、28歳で結婚し、29歳で第一子、31歳で第二子、33歳で第三子を出産。それぞれのお子さんを出産した後は育休を経て、職場に復帰している。復帰後の配属先も集中治療室で、フルタイム勤務だった。

「旦那も仕事が忙しくて、子育てをサポートしてもらえる頼れる身内も近くにいなかったので大変でした。2人目を出産した後、産後うつ状態になって涙が止まらなくなり、心療内科に通ったこともあります。先生から、治す方法は仕事復帰することと言われて、結局看護師の仕事に早く復帰しました」。

当時、まだ車は初心者で運転できず、お子さんが0歳、2歳、4歳の時は2人を自転車に乗せて、長男を並走させながら保育園の送り迎えをしていた時もあった。その状況を見た大阪のおばちゃんから怒られた経験があるという。「『あんたな、この子も保育園ゆーても仕事と一緒やん。朝からこんな走らせて子どももキッツイで!』そう言いながらバナナとかくれるんですけどね。『車ぶつけてもええやん、運転頑張れ!』と励まされて、そこから車を運転するようになりました。でもかなりぶつけましたね(涙)。ぶっつけて、サイドとかフロントのバンパーを落としたら、おっちゃんが『落ちたで!持っとった方がええで!』って、バンパーを抱えて追っかけて来てくれたり。大阪は本当に面白い人が多かった。愛がありました」。

また、こんなエピソードも。3人の幼子と、保育園に持参する昼寝用の3つの布団を、住んでいたマンションの30階までに運ぶため、車にお子さんを置いて荷物を持って上がっていた時、置き去り事件では?と車を警察が取り囲んでいたこともあったそう。壮絶すぎてあの頃の記憶がほぼない…と言いながら、大阪の人たちに助けられたエピソードに大笑いし、ちょっとホロリとした。

「子どもたちって順番に熱出すから、立て続けに病児保育に預けるじゃないですか。1日2000円でそれが3日間だと一人で6000円。3人だと1週間で2万円くらいかかってくるんですよね。そうなってくると『私なんのために働いてるんだろう…』って思ってきて。そんな時、東日本大震災があって大阪も震度6弱ぐらいの地震があって。私はちょうど勤務中だったんですけど、保育園とも連絡が取れない状態でした。お互いの両親も大分にいるし、こんな時に父母が近くにいたら…と痛感して。それで、マンションを売って大分に帰ることにしました」。

中野美穂さん

患者さん・家族と
医者・病院を繋ぐ代弁者に

36歳まで大阪で暮らし、長男が小学校に上がる8年前に戻ってきた。大分に帰るにはちょうどいいタイミングだった。

子どもたちには野球をしてほしい!という野望を胸に、家探しが始まる。野球グラウンド近くの土地を見つけ、そこに現在の住居を構えた。「ここだとグラウンドが目の前だから、野球するには便利だよって説得したら、3人とも野球を選んでくれました。長男は別府の中学校で野球部に入り、毎日別府まで通ってます。下の二人は少年野球のチームに入ってます。私はそのチームの女会長を務めてます(笑)」。



現在は臼杵市の小さな地元の病院に勤めている美穂さん。療養病棟で高齢の認知症患者が多いため、朝から晩まで介護や看護の仕事で多忙な時間を過ごしているそう。

「集中治療室は、人工呼吸器に繋がれたままの人も多く本当にシビアな世界でした。今認知症の患者さんと向き合っていますが、どちらの患者さんも自分の思いを言葉で伝えることができないんです。その思いに寄り添って、患者さんや家族と、病院とを繋ぐのが看護師の役割だと思うので、私は患者さんたちの代弁者になりたいとずっと思っています」。

ある高齢の認知症患者にずっと寄り添って来た美穂さん。入院当初は老衰で寝たきり、ご飯も食べられない状態。意思表示もできなかった。家族も諦めていたが、美穂さんは根気よく患者さんと向き合った。

「ある時、祇園祭の宣伝カーが祇園の音楽を流して走ってたんですが、その音を聞いたおばあちゃんが立ち上がって動き出したんです。このおばあちゃん分かってる!って確信して。そこから私の好き勝手が始まるんですけど(笑)いろんなお菓子を買って目の前に置いたりしてたら、黒棒を開けて食べたんです。これなら何か食べられるからと、お医者さんに薬を処方してもらって、結局最後は車椅子に乗れるようになり、ご飯も食べられるようになって施設に戻ることができたんです。今は、そうやってじっくり一人一人の患者さんと向き合うことができています。高齢な方も多く、残念ながら亡くなる患者さんもいるので、人生の旅立ちをみんなに見送ってもらえるよう、最後の大切な時間をできるだけ作ってあげたいと思っています。これは長年の経験から得た、看護師の判断が必要なんですけど。23年間看護師として働いて多くの経験を積んできて、今いろんなことにやりがいを感じることができているかもしれません」。



患者さん一人一人に向き合う経験は、子育てにも役立っていると美穂さん。三人三様、それぞれ性格の違う兄弟。みんな違ってみんないいと思えるようになったのも、患者さんと接する中で学んだ。「病衣とか、食べる時にエプロンをするのは、私は本当は嫌なんです。その人らしさが見えないから。患者さんの個性や能力が発揮できる場所で、その人らしくいてほしいと思うけど、病院はあくまで治療の場なので限界はありますよね。でも患者さんは一人一人違うから、そこは尊重したいんです。子育ても同じ。比べることなく、その子らしさを大切にしてあげたいと思います」。
   
話を聞いていると、看護師の仕事と家庭の両立、そして3人のお子さんの野球のお世話もあり、かなりハードな毎日だろうと安易に想像ができる。「30時間寝ないこともあります(笑)。朝起きて10時とか昼からの野球の試合を見に行って、そのまま夕方16時半から朝9時まで夜勤。夜勤明けから寝ないでそのまま試合見に行ったりとか。だから超忙しいです! でも野球を見るのが私の一番のストレス解消なので全然平気。家で寝ててもグラウンドから野球の音が聞こえると、見に行っちゃうんですよね。だから結果、ここに家建てたのは悪かった。眠れないんで(笑)」。

忙しい毎日を全力で楽しんでいる美穂さん。仕事もプライベートも、今が一番充実しているそう。「仕事に野球にと本当に毎日めまぐるしいけど、東京・大阪の壮絶な時間を思い出すと、今が本当に幸せだと感じます。でもあの時間があったからこそ今がある。私、今もし突然死んでも悔いがない!そのくらい充実…というか、カツカツで生きてますね(笑)。臼杵の病院に就職したのは、お世話になった地元に少しでも恩返ししたかったから。看護師の仕事も、できてあと20年ちょっとかな。まだまだ仕事でもやりたいことがあるから、少しでも大好きな地元の役に立てたらうれしいですね」。

中野美穂さん

この記事のライター:安達博子

(笑)の乱用、すみません。こんなに大笑いしながら取材したのは初めてというくらいおもしろエピソード満載の2時間で、音声でお届けしたいくらいです。このおもしろさを少しでもわかってほしくて、安直に(笑)乱用してしまいました。そして文章長くてすみません。まだまだ書ききれない話もあって、かなり頑張って端折ってみたけど大作になってしまいました(もろもろペコリ)。彼女を一言で表すなら「野球好きのファンキー看護師(笑)」。病院での信じられないエピソードも聞かせてくれましたが、一方で看護師の仕事を全うするブレのない生き方や考え方、熱い想いが伝わり感動しました。私がいつの日か天に召されるとき、ベッドの側に美穂さんがいてくれたら、安心して旅立てるな。。。と本当に思いました。人を笑顔にするパワーに溢れ、安心感を与えてくれる美穂さん。それは、集中治療室で多くの人に死に向き合い、たくさん泣き、たくさん悔しい思いをして医療現場での23年間の経験を積んできたからこそなんだと思います。3人のお子さんの野球のお世話もしながら、多忙な毎日を「楽しいです!」と言い放てる強さ! 素敵! たくさん元気もらいました。会った瞬間、ずーっと昔から知ってる友達みたいに意気投合! 勝手にソウルメイトと出会ったと思ってますんで(笑)

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