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2021.08.10

誰かに自慢するための人生じゃなく
自分に誇りを持てる人生を歩みたい

藤原弥生さん[映像制作クリエイター]

今回のママ:
藤原弥生さん[映像制作クリエイター]
37歳・大分市出身・大分市在住(5歳の男の子の母)

地元テレビ局の報道部で、お天気キャスターや報道取材、リポーターなどの仕事を9年間経験し、そのスキルを生かして昨年、映像制作会社「Smile Star Creative」を立ち上げた藤原弥生さん。写真撮影や映像制作・ナレーションの3役を一人でこなしている。一見華やかな世界に身を置いているかのように思える弥生さんだが、その背景にはうつ病との壮絶な戦いがあった。

大好きだったテレビの仕事に
どっぷり浸り、走り続けた9年間

地元の夕方のニュースで、お天気キャスターとして連日テレビ越しに見ていた彼女の姿。ベビーフェイスで可愛らしい笑顔に、ホッと癒されていた記憶が残っている。

そんな、一見華やかな世界で約9年間契約社員として働いていた藤原弥生さん。今年3月に行われた「ままいろフェスタ大分2021」でお友達が出展していたため会場を訪れ、現場を仕切るママたちや参加するママたちの想いに共感し、素敵な動画を作ってくれた。そこで流れるメッセージには愛が込もっていた。この動画に感動した当プロジェクトのマネージャーが、ママのままプロジェクトのサポート企業のPR動画を作って欲しいと依頼し、弥生さんとの縁が生まれた。



市内にある名門の小・中学校を経て、英語や国際学を学べる高校・短大に進学。大学卒業後、テレビ大分に契約社員として入社し、報道部に所属。お天気キャスターの仕事をメインに、報道取材やそれに伴う原稿作成、情報番組のリポーターなどをこなし、多忙な毎日を過ごした。

幼い頃からテレビの世界が大好きだった弥生さん。本編よりもメイキング映像に興味を持ち、番組制作の裏側を分析するのが好きで、憧れの世界で働く日々は、忙しい中でも夢のようだった。

同じ職場に勤める10歳年上のカメラマンと28歳の時に結婚。職人気質でとても厳しく、上司、部下、男女という性別関係なく丁寧に仕事を教えてくれ、厳しさの中にも愛情溢れる尊敬できる先輩だった。音楽が好きという共通の趣味で意気投合し、次第にお互い惹かれあい結婚することに。

「子どもが寝た後、主人とテレビを見ながら話をする時間がとても幸せ。ここではこういう映像を入れるといいねとか、この効果音いいなとか、ディレクション大変だっただろうなぁとか(笑)お互いテレビや映像の世界が好きなんです」。

結婚後、仕事の引き継ぎも兼ねて1年間は継続して働いた。「いつか、赤ちゃんを授かったタイミングで離職しようと考えていたんですけど、自分たちが想像していたよりもそれがなかなか難しくて…。結局、息子を授かるまでに6年かかりました。9年間ずっと走り続けてきたし、ここからはお母さんになるための準備をしようと、思い切って30歳で退職しました。それからいろんな努力もしたけどなかなか赤ちゃんができなくて…。毎朝基礎体温を測って、変化がないことにポロポロ涙が出てきたり、つい主人に八つ当たりをして心の関係がうまくいかなくなったり…。仕事を辞めて3年目ぐらいの時、流産を経験しているんです。なので尚更、赤ちゃんや家族ができることって当たり前じゃなく奇跡なんだ、って痛感しました」。

藤原弥生さん[映像制作クリエイター]

心の土台が崩れ
出口のないトンネルの中で苦しむ日々

自分の意思で大好きだったテレビの仕事から離れ、一方では念願の赤ちゃんもなかなか授からず…。そんな日々を送っている中、弥生さんに変化が。「ここからは上手くお話できるか分からないんですけど…。実は私、離職した後、うつ病で閉鎖病棟に入院しているんです。仕事を辞めたこと、赤ちゃんがなかなかできないこと。いろんな要素があったと思うんですけど、振り返ってみると、その数年間だけの要因ではなくて、生まれてからこれまでの心の土台がちゃんとできてなかったからだと…。それが、何かのショックが引き金となって、この土台がもろくも崩れたんだと思います」。

「同じ経験をして、今辛い思いをしている誰かの活力になるなら…」と、包み隠さず、赤裸々にうつ病の経験談を話し始めた弥生さん。勇気を持って告白してくれたその想いに感謝して、読んでいて辛くなる部分もあるかもしれないが、あえてオブラートに包まず書かせてもらうことにする。

「病気はどんどん進行して、自傷行為をするまでになり手が付けられない状態でした。気づけば紐を引っ掛けていたり、ベランダに足をかけていたり、抗うつ剤を飲んで悪夢を見て、現実と夢が分からずパニックになったり。主人は仕事があるのでつきっきりは無理だし、専門家の助けが必要だと、病院に入院することになりました。病室の鍵は一部屋ごとに閉められ、窓は鉄格子で、まるで牢獄のような場所でした。ここから早く出る方法はないかと考えた時、いい子でいることだと思ったんです。診察のたびに元気な姿を演じていました。結局1ヶ月ほど入院しましたが、退院しても良くなっているわけないですよね。また同じ生活に戻り、同じ衝動に駆られて、いつも何かに怯えて不安で。自分は生きる価値のない人間なんだから明日は来なくていい。じゃあ…。ってその繰り返しでした。離職して息子を授かる33歳までの5年間は地獄のような日々でした」。



弥生さんは厳格な家庭で育った。幼少期から両親の機嫌を損わぬよう、いい子として育った。自分の本音を出せる場所がどこにもなかった。中学時代いじめを疑われ、濡れ衣を着せられたこともあった。「結果的に私じゃないことがわかった時、それにプラスしてショックだったのが、学校から口止めをされたこと。両親に相談することすらできず、でも落ち込む私に気付いた親が学校に話に行ったんですけど世間体を優先して、結局それで終わりました。自分が親になってみて改めて思うのは、親だったら守って欲しかったなって…。だから、ずっとひとりぼっち感がすごかったんです」。話を聞いていて〝心の土台〟が脆くなってしまった理由がわかった。

「こういうことが積み重なって、30歳で爆発したんでしょうね。大好きだから守ってほしかった、大好きなのに守れなかった・・そんな状態だったのかな・・。せめて、そうであって欲しいなと今は思います」。 

その後、うつ病は回復に向かい、33歳で妊娠が判明。「悲しい流産も経験したけど、もしあの時産まれていたら、育てる自信はなかったかもしれません。一度空に戻ってから、またお父さんとお母さんが元気になったら戻ってくるねって。それでまた戻ってきてくれたのが息子だと夫婦でよく話します」。

息子さんは5歳になり、元気に幼稚園へ通っている。「子育てって正解がわからない。いい大学に行くことが正解じゃないし、好きなことを仕事にできても正解かわからない。お母さんになってまだ5年しか経ってないけど、もし子育てに正解・不正解があるなら、自分の子どもが『人生をやめたい』と思った時だと思うんです。心の健康が第一だから、息子には危ない・汚い・悲しいと思う3つ以外のことはなんでもしていいよ!っていつも伝えてます。いっぱい失敗して学んで欲しい。体の健康も大事だけど、人は心の健康が大事だと、経験してるからそう思うんです」。

藤原弥生さん[映像制作クリエイター]

自分を認めてくれた言葉が心に落ちた時
やっと明かりが見えた

今はうつ病を克服し、昨年一人で設立した会社の仕事に邁進する日々。輝く笑顔からは、辛かった日々の面影は微塵も感じない。うつ病を克服したきっかけがあるとするのなら「どんな自分でも認めてくれる存在がいるというのが、自分の心にちゃんと落ちてきた時」と弥生さん。

「承認欲求が強かったから、20代の私はすごくわがままだったと思うし、社内でも横柄だったと思うんです。うつ病になってからも、仕方ないじゃ許されないほどめちゃくちゃだったと思う。でもそんな私をずっと側で見守ってくれた旦那さんや、友達、ずっと手を離さずにいてくれた元上司。多くの人たちが支えてくれました。『弥生ちゃんは弥生ちゃんそのままでいい、失敗したっていい』と自分を認めてくれた言葉がふっと心に落ちてきた時、私に愛情を注いでくれたことを改めて感じ、明かりが見えた気がします」。

次第に薬に頼ることもなくなり、そこからは、今までの分を取り戻すかのようにエンジンが全開になった。大分市が募集していた人権フォトコンテストに応募すると、見事優秀賞を獲得しその写真は市報の表紙を飾ることとなった。ある日、市報を見たという会社の社長から「この写真を撮影した人に仕事をお願いしたい」と連絡が入る。人生で初めてのことだったので、舞い上がってしまったと弥生さん。

「でも当時まだ子どもが小さくて、3歳までは働かず子育てに専念したいと思っていたので、またご縁があれば…とお断りしてしまったんです。でもその出来事で、私はまだ何かの役に立てるんだ!って思えてたんです。本当に嬉しかったですね」。

藤原弥生さん[映像制作クリエイター]

〝本当の特別は日常の中にある〟
そんな想いを届けられる作品を作りたい

息子さんが幼稚園に入園するタイミングで復職を考えていた弥生さん。自分の存在意義を改めて教えてくれたそんな嬉しい出来事に鼓舞され、自分の好きな仕事にまた関わりたいと、映像制作やナレーション、学生時代からアマチュアで活動していた写真を合わせた製作会社を設立した。しかし「アマチュア上がりなのに」「覚悟と責任感が足りない」とバッシングを受け、再び精神的ダメージを受けることに。

「私はやっぱり出しゃばっちゃいけないんだ、静かに生きないといけないんだって、精神がまた落ちてしまったんです。でもうつ病を克服していたので、立ち直りが早かったです。確かにカメラはアマチュアだなと悔しくなって、そこからフォトマスター検定2級という検定を受けることにしました。1年間ぐらい子どもが寝静まった時間に勉強して、試験に臨んで2級を合格したんです。そうしたら安心してしまったからか、帯状疱疹で急遽入院。私が不在の状況に、まだ小さかった息子はパニックに。泣き叫ぶ姿を見て『子どもをこんなに悲しませて、私は何をやってるんだろう。誰のために? 何のために?』って思ったら、何か吹っ切れたんです。もう誰に何を言われても関係ない!って。誰かに自慢するための人生じゃなくて、自分に誇りを持てる人生を歩みたい!と思えたんです」。
 
弥生さんが作る映像や写真は、女性・そして母としての優しさで満ち溢れている。「カウンセラーじゃないから、困っていたり苦しんでいる人に直接伝えられないし、アドバイスもできないですけど、ファインダーやレンズを通して、何かを感じてもらえるものを作りたいです。私が切り取りたいのは〝日常の中にある特別〟。本当の特別って日常の中にあると思うんです。だから気取らなくても、笑わなくてもいい。自然な表情を写真や映像に残してあげたい。あなたのお子さんはそのままの姿でこんなに素敵ですよって伝えてあげたいです。周りに左右されず、自分自身や家族の幸せを突き詰めていった方が最高の人生になるんじゃないかと思うので、そんなメッセージが伝わる作品を届けていきたい。苦しかった時期からこの5年間、家族や親友たち、そして出会った方々に沢山の愛情を注いでもらいました。今の自分があるのは、皆さんのおかげ。今度は、その教えて貰った愛情の尊さを自分が作品などを通じて多くの人に伝え、恩返しが出来たらと思っています」。

藤原弥生さん[映像制作クリエイター]

この記事のライター:安達博子

弥生さん。今回は本当に辛い経験を包み隠さず、勇気を持って話してくださってありがとうございました。私はうつ病の経験はないので想像でしかないけど、経験者の話しを直に聞いて、その壮絶さに絶句してしまうほどでした。出口の見えないトンネルをさまよって、一生この日々が続くのかという絶望感。苦しかったでしょう。でも周りの支えや愛情によって、弥生さんは新しい人生を歩き出しました。「経験は宝なり」と言うけど、こんなに辛く苦しい経験を糧にして、さらに強く優しい女性に生まれ変わったんだと思います。母であり、一人の女性として、これからは映像や写真を通じて、多くの女性に勇気を与えてくれることでしょう。ママのままプロジェクトにまた一人、心強い存在が仲間入りしてくれた気持ちで、ワクワクします。これから楽しいこと、新しいこと、一緒にチャレンジしていきましょうね!

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