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2022.10.18

同じ境遇の人の力になれたら…
みんなに優しい社会を目指して

安藤歩さん[医療的ケア児者 親子サークル主催]

今回のママ:
安藤歩さん[医療的ケア児者 親子サークル主催]
46歳・大分市出身・大分市在住
(高校3年生・高校1年生・中学2年生・幼稚園年長の二男二女の母)

あなたは〝医療的ケア児〟の存在を知っていますか? 何らかの原因でNICUなどに長期入院した後、引き続き人工呼吸器や胃ろうなど医療機器を使用し、たんの吸引や経管栄養などの医療的ケアが日常的に必要な児童のことで、全国で約2万人、大分県では約130人いるとされています。おたふく風邪発症後、ムンプス脳炎後遺症を患った長女の那月さんの介護をしながら、3年前に医療的ケア児者親子サークル「ここから」を立ち上げた安藤歩さん。まずは〝医療的ケア児〟の存在を知ってもらうことから支援が始まると、積極的に周知活動を行っています。

挫折からの再起!
遠回りしながら進んだ、看護師の道

冒頭で質問しておきながらなんだが、私自身も正直なところ〝医療的ケア児〟というワードは初耳だった。出産後、育児の大変さを経験しながらも、子どもは元気にすくすくと育つのが当たり前だと思っていたし、それに何の疑いも持たず、私自身もここまで母親業をこなしてきた。だけど、その当たり前の日常は誰かが保証してくれるものでもなく、明日何が起こるかわからないんだと、事前に拝見した歩さんのインスタを拝見して痛切に感じた。

取材におじゃましたのは、ご自宅。にこやかな笑顔で出迎えてくれたのが、今回取材に協力いただいた安藤歩さんだ。元気でパワフルなオーラが漂っていた。部屋に通してもらうと、部屋の奥のベッドに人工呼吸器をつけている那月ちゃんがいた。「ピーッ、ピーッ」という、電子モニターが発する一定音が聞こえる。



4人のお子さんのママでもある歩さんは、看護師でもある。「私の母も看護師です。毎日忙しく働いている姿を見ていました。習い事の後に、母が働く病院の休憩所で仕事が終わるのを待ちながら看護師さんと話をしたりして、小さい頃から医療現場を近くで見てきました。でも、母の不規則な生活を見ていて看護師にはなりたくないと思ってたんです。学校の先生になりたいと思っていたけど、やっぱり医療の仕事が気になり始めて…。それで、両方の夢が叶う保健室の先生を目指して大阪の看護専門学校に進学しました。でも看護実習の厳しさにくじけて、あと半年で卒業…という時期に学校を辞めたんです」。

その後、大分に戻ってきた歩さんは教育関係の仕事を目指し、通信教育関連のアルバイトなどに就いた。「あなたは看護学校を途中で辞めたところでずっと止まってる。これからの人生でそのことをずっと引きずることになるから、その壁を一回乗り越えないといけないんじゃないかな?」と、ある病院の先生の言葉で、看護師という仕事を改めて意識し始めた。「看護師にもう一度チャレンジしてみたい!」と母親に相談。



「今度は揉まれる環境の中で、働きながら准看護師の資格が取れる学校に行った方がいい」という助言から、大分准看護専門学院に入学。勤労学生として、アルメイダ病院に勤めながら、看護師としての学びを深めていった。「いろんな生徒さんがいました。手に職をつけたいと仕事を辞めてきた35歳の男性や、資格が欲しいと通う48歳の女性とか…。当時私は22歳。幅広い年齢層の人たちの中で、勉強と現場が合致するすごく恵まれた環境で看護師を目指すことができました。厳しい中にも愛あるアドバイスをくださる先輩の看護師さんたちや仲間に助けられながら、充実した時間でした。改めて、母親の先見の明はすごいな!と感じました」。

卒業後はさらなる高みを目指し、別府大学の看護学校に2年間通い、26歳で正看護師の免許を取得。その後アルメイダ病院に再び戻り、看護師として働いた。「一番最初に配属を希望したのはICU。26歳からの遅咲きスタートだったから、早いうちにいろんなことを経験しておきたいと、あえて厳しい道を選択しました。現場は厳しかったけど、周りの人たちに恵まれて、温かく育ててもらいましたね。回り道したけど、私はそれでよかったと思っています」。

脳死と診断され
長女の在宅介護生活が始まる

看護師として多忙な毎日を過ごしている中、28歳で結婚。産休を取りながら仕事に復職し、3人の子どもの育児と仕事の両立に奔走していた。三人目は待望の女の子だった。

「出産してから日勤勤務になり、学生指導を任せられるようになりました。もともと教員志望だったので仕事も面白くて。看護学生実習の知識を学べる学生指導研修にも参加させてもらい、毎日やりがいに満ちていました。その実習の成果発表の準備をしている多忙な最中、長女の那月が3歳半の時におたふく風邪にかかったんです。預け先の母から「様子がおかしい」と電話があり、すぐ帰宅。ずっと寝てるし、熱も高いので病院に連れていったら、おたふくの合併症で、もしかしたら髄膜炎かもということに。その後、髄膜の検査をしたけど陰性で、しばらく様子見で入院することになりました。だけど、それからなかなか目が覚めなくて…」。

看護師として働いていた歩さんは、那月さんの様子に違和感を感じていたが、嘔吐の後を見つけ、それが確信に変わった。「嘔吐するということは脳に何らか関係している可能性がある。看護師さんに伝えたら急に慌てた様子で、担当の先生が来てから『これはやばい』と…。CTを撮ったら、大きな病院に移りましょうということになったんです」。

ただならぬ空気であることは、看護師の歩さんに伝わった。脳にムンプスウィルス(おたふく風邪の原因ウィルス)が侵入し、悪さをしているとのことだった。しかしウィルスに特効薬はなく、自分の免疫で戦うしかない。そこからは坂道を転げ落ちるように、那月さんの容態はどんどん悪くなっていった。脳浮腫、痙攣も頻発し始め、意識レベルも落ちていった。「先生の説明は丁寧なんですけど、でも内容は最悪な状況だということがわかりました。兄弟もみんなおたふく風邪になったけど、成長の通過点として当たり前にかかる病気という認識だったので、まさかこんなことになるとは思いもよらなかったんです。これから普通に成長して、生理が来て大人になって、女同士の話もして…。そんな日が当たり前にやってくると思ってたけど、何事もなく元気に成長できるのは奇跡なんだって、那月に教えてもらいました」。



明日どうなるかわからない状況。死さえも覚悟する日々。そんな日々に泣き暮れ打ちのめされていたある日「那月は頑張って生きてるのに、僕たちが泣いているのは那月に失礼だ!だから泣くのはやめよう」とご主人と話し、もう泣かないと決めた。最終的に脳死状態と診断され、それ以上できる治療はなかった。見守ることしかできない無力さに歯がゆさを感じた。やがて自発呼吸ができなくなり人工呼吸器をつけ「1年後、生きている可能性は10人に1人」と告げられた。「やれることがもうないなら、家に連れて帰ろう」。同じ症状の子どもを持つ親のSNSなどで情報収集をし、在宅介護ができるよう準備を進めた。

「24年の3月に那月が倒れて、8月に家に戻ってきました。でもいざその生活が始まると想像以上に大変で。夜1、2時間おきくらいに起きて排痰をしたり、那月の体を動かすのも慣れてないのでひと苦労だし、クタクタでした…。那月にも負担がかかってたのか、1週間後には体調が急変して救急車で病院に運ばれ再入院したり…そんなジェットコースターのような毎日でした。でも徐々に、訪問看護師などのサポートも受けながら慣れていきました」。

那月ちゃんが倒れ、4ヶ月間は有休消化、介護休暇で休みを取得し、病院には在籍していた。しかし、在宅介護をはじめ、今の状態では到底働くことはできないと退職を決意した。「辞めたくはなかったけど、状況的に働くのは無理でした。今は那月専属の看護師です。那月の出来事は私にとっても人生の大きなターニングポイントになりました」。1年後の生存確率は10人にひとりと宣告された那月ちゃんは現在14歳。それから11年が経過した。

安藤歩さん[医療的ケア児者 親子サークル主催]

友達や先生と一緒に教育を受けることで
日増しに表情が豊かに

保育園に通ったのを最後に、那月さんは教育を受ける機会を失っている。それまでは日々介護の生活に追われ、那月さんの教育のことを考える余裕さえもなかった。担当の訪問看護士が子どものデイサービスを開くことになり、そこに参加することで意識が変わっていった。

「それまでは外の世界とはシャットアウトだったけど、デイサービスに通うようになり、いろんな人と関わるようになって、この子の居場所が少しづつ広がっていくのが嬉しくなってきたんです。ちょうど小学校に上がる年だったので教育を受けさせたいと学校や教育機関を訪れ、動いてみたんです」。



自宅から徒歩5分圏内に小学校がある。那月ちゃんのお兄ちゃん二人が通っている学校だ。どうせなら兄弟が通う学校に通わせてあげたいと学校に相談に行ったが、設備の問題や対応が難しいと受け入れてもらえなかった。その後、市や県の教育委員に相談に行った。

「残酷な表現ですけど、那月は意識もないし、何かできるということもない。だけど一人の子どもとして、生活・遊び・教育を体験させてあげたいと思ったんです。自宅住所から支援学校は大分支援に、となりましたが、人工呼吸器をつけた子どもの前例はなかったんです。ですが、先生方は快く受け入れてくれ、受け入れ準備に努め、訪問学級扱いで先生が家に訪問して教育を受けることが可能になったんです。文化祭や誕生日会の時には学校に行くようになり、友達や先生と直接触れ合うことですごく楽しそうな表情になっていきました。脳死状態だから反応はないと思われるかもしれないけど、目が少し開いたり、足や手が動いたり。私には見せたことのない、いい顔になって生き生きとした表情になってきたんです。入院することも少なくなってどんどん強くなってるし、『やっぱりこの子は生きたいんだ!』というのをありありと感じるんです。きっといい刺激を受けているんでしょうね。できるだけ、学校に行って、友達の中に入れてあげたいと思い、週に2日ぐらいは学校に通っています。子どもって、人間ってすごい! 何度も生死をさまよったけど生き抜いて、どんどん生きる力がみなぎって元気になる姿を目の当たりにしました。科学や医療では解明できない、想像を超える可能性を秘めているんだなと感じています」。

適切な支援を受けながら、健やかに成長してほしいと願うのはどの親も同じだと思う。それが当たり前に叶う社会になってほしい…と、歩さんの話を聞いて感じた。

安藤歩さん[医療的ケア児者 親子サークル主催]

もっと肩の力を抜いて自分に優しく
私が経験したから、そう伝えたい

那月ちゃんを通して、たくさんの経験をしてきたからこそ、当事者として同じ境遇にいる人たちの力になりたいと歩さん。

「こういう医療的ケア児の存在って世間ではまだあまり知られてないと感じます。もっと知ってもらえることで伝えられることもあるなと思い、医療的ケアが必要な家族の日常を撮った写真展を開催することに。そういう活動を始めて、3年前にサークルを立ち上げました。今は周知と交流、癒しや情報交換の場所として利用してもらえるよう何名かのメンバーと一緒に活動を広げています。教育やサポート部分など、まだまだ支援が行き届いてない部分も多いのが現状です。今年1年はまずは知ってもらうことに注力したいと思います。お母さんたちが孤立するのを、私自身も経験しているし、苦しんでいる人たちの力になれたらって…。那月が倒れてから看護師の仕事を辞めましたが、私もやっぱり働きたいとなと思いますしね。支援が充実すればそんなお母さんも働くことが可能になるし、自分の時間を持つこともできる。付きっきりで介護しているお母さんもたくさんいて、本当にみんな一生懸命。でも、もっと肩の力を抜いていいし、自分に優しくしてあげてほしい。私も苦しかったので同じ立場でわかりあえるとすごく救われると思うんです。看護師の資格を活かして、那月を巻き込みながら、みんなの居場所を作っていけたらな…と。この子たちの目線で作られる世界があるとしたら、それはきっとみんなに優しい社会。自分が今五体満足だからって優位に立つんじゃなく、想像力を働かせて、みんなに優しい世の中になるように、少しでも力添えできたらいいなと思います。那月が教えてくれたことはたくさんありました。もちろん大変なこともあったけど、この子が今生きていることや、人間として当たり前の権利をちゃんと与えてもらえることを大事にしていきたい。先駆者として、あとに続く人たちの道ができるよう歩いて行きたいです」。

安藤歩さん[医療的ケア児者 親子サークル主催]

この記事のライター:安達博子

40歳で次女を出産した歩さん。那月ちゃんに妹ができることで生きる力がさらにパワーアップしてくれたらという想いからでした。バスケに頑張るお兄ちゃん二人を始め、決断力のある男らしいお父さん、そして元気でパワフルなお母さんと、賑やかで元気いっぱいの家族に囲まれ、肌で、耳で、空気で、匂いで、那月ちゃんはたくさんのことを感じ取って、細胞は常に活性化されているんだと思います。那月ちゃんが病に倒れ辛いこともたくさんあったと思いますが、那月ちゃんのおかげで繋がった縁や経験はきっと安藤家の宝物になっているはず。支援制度がもっと充実して、看護師の経験を生かした活動が再開できる日が来ることを願っています。2時間超えのインタビューでここに書けなかったエピソードはたくさんですが、まずはこれをきっかけに、医療的ケア児の存在を少しでも多くの方に知ってもらえたら幸いです。またお会いできる日を楽しみにしています!

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