サウジアラビアで過ごした3年間が
カイロ大学で研究に没頭した日々の原点
「サウジアラビアに住んだ経験があって、今は観光案内の仕事をしている面白い友達がいるよ」と、以前当コーナーで取材を受けてくれた方が教えてくれた。いつか会ってみたいなぁ…と思っていたので、取材ができることになったとわかった時、早く話を聞きたい!とワクワクした。
取材場所に現れた圭菜さんは、長身ですらっとした、ボブヘアーが似合う知的な雰囲気を放っていた。
鹿児島県出身。圭菜さんのお父様が発展途上国での技術普及の仕事をしていた関係で、中学1年生から3年生までをサウジアラビアで過ごした。「日本人学校に通っていたので、海外で過ごしたという感じはあまりなかったかな…。宗教上の問題で、現地の人たちと気軽に交流することができなかったので、今考えると、現地の学校に通ってたらもっといろんな経験ができたのかなと…と思ったりします。帰国後、鹿児島の学校に戻った時の方がモヤモヤしていました。多感な時期をサウジアラビアで過ごしたので、どうしても日本の学校に溶け込めない感じで…。得たものもあるけど、失ったものもあるなって思います」。
地元の高校を卒業した後、大阪外国語大学に進学しアラビア語を学んだ。語学を学ぶためチュニジアに留学をしたり、アフリアに旅行に行ったり、世界の広さを肌で感じる貴重な時間を過ごした。その後、大学院へ進学。女子性割礼や女性のヴェール着用など、アラブ・イスラーム世界の女性をテーマにした研究に没頭した。院1年生の時にエジプトのカイロ大学へ留学。現地の女性の声を拾うべく、100人の女性たちにインタビューした。タブーとされる性の話をすると拒絶されることも多々あった。「留学していた1年間はフィールドワークに勤しむ毎日でした。若かったからできたんでしょうねぇ…。今となってはいい思い出です!」。
妊娠中の震災、そして転勤…
精神的にも不安定だった日々
卒業後、博士課程に進む道もあったが、アラブと関わる仕事に就きたいと25歳の時に東京の総合化学メーカーに就職し、サウジアラビアの国営石油会社との合併事業の立ち上げスタッフとして関わった。海外出張もあり刺激的な仕事だったが、東京での生活は徐々に圭菜さんの心身を蝕んでいった。「給料の大半を、疲れを癒すためのリラクゼーションに使い、何のために働いているのかわからなくなってきて。将来のために今は我慢しようとずっと頑張ってきたけど限界でした。人生で一番しんどい時期だったかもしれません」。
仕事に悩んでいたそんな時期に、同じ職場だったご主人と結婚。その後ご主人の転勤が決まり、圭菜さんは退職を決めた。「あの時、もっと働ける力があったら今どうなってるかなって思うこともあるけど、人生には色々なタイミングがあるし、それも私が選んだ人生。全然後悔はありませんね」。
2010年10月、青森県三沢市へ転居し、翌年1月に妊娠が判明した。そして妊娠4ヶ月目の2011年3月、東日本大震災が起きた。「つわりで横になっている時でした。激しい揺れで、古かった社宅が崩れるんじゃないかという恐怖で裸足で家を飛び出しました。震源地からは少し離れていましたが、電気も水もない生活が続きました。お腹の赤ちゃんに影響を及ぼすかもと放射能も気になって。こんな状況の中で、無事に赤ちゃんが生まれてきてくれるだろうかと、精神的にも不安定になりました」。
三沢市には米軍基地があり、地域の交流会でアメリカ人の友達ができた。彼女も妊娠中だった。お互いに慣れない土地での生活だったが、心の支えになってくれる存在となった。「そのお友達のおかげで、仕事もなく人との交流も少なくなった私の生活はだんだん楽しいものになっていきました。でもその矢先にまた転勤に…」。
心許せる友ができ、青森での暮らしにも潤いが出てきた矢先の2012年3月、大分への転勤が決まった。
生後半年の息子さんを連れ、大分へ。「せっかく友達もできたのに、また見知らぬ土地で一からのスタート。もともと新しい環境に慣れるのに時間がかかる私は、限界を迎え一気に疲れが押し寄せ、精神状態も体調も悪くなってしまいました。だけどそのまま家に篭ったらダメだ!と自分を奮い立たせて、子育て関係の集まりに参加して、新しい出会いができ、少しづつ前向きになっていきました」。
息子さんが嘔吐下痢に感染した時、圭菜さんも感染してしまい、家政婦相談所に泣きついたこともあった。しかし病児を受け入れてもらえず、京都に住む義母が大分に来てくれた。また息子さんは熱性けいれんの持病もあり、発症するたび気が動転する自分を情けなく思うこともあった。慣れない土地で、ほぼワンオペでの育児。忙しいご主人に頼ることもできず、近くに身内もいない中、一生懸命に踏ん張る圭菜さんの姿を思い浮かべると泣きそうになった…。
外国の人と関わる仕事に就きたい!
直感で動き、大好きな仕事を見つけた
「いつかはまた働きたい」という気持ちもあったが、めまぐるしい日々の中でその自信はなかった。東京で働いていた頃、リラクゼーションサロンに通うことで心身が救われた経験のある圭菜さんは、友人の紹介でリンパトリートメントのスクールに通うようになった。資格取得に向けての新しい目標ができ、その受講代を稼ぐため、苺のパック詰めのパートに出ることに。久々に〝働く〟という感覚を味わった。無事、資格取得に必要なお金も貯まり、アロマセラピストの資格を取得。イベントに参加したり、そこで出会った就労支援施設のオーナーさんのご厚意で、施設の一室を使用させてもらい、セラピストとしての活動を開始した。
数年がかりで取得した資格だったが、息子さんも小学生に上がり手がかからなくなると「本当は何がしたいの? どういうふうに働きたいの?」と再び考えるように。そんな時、大分で開催されたラグビーW杯のボランティアに参加し、外国からのお客様の案内外係を担当することになった。「久しぶりの感覚でした。外国の方と関わることがやっぱり好きなんだなって、再確認できたんです。そういう仕事に就きたい!と職を探していた時、別府市の都市づくりを行なっている『B-biz LINK』という会社が運営している事業を知り、思い立ったその足で窓口へ押しかけたら、APUプラザで定期的に開催されている語学講座が行われてたんです。その授業を見学させてもらって、受付にいた方に『やってみたいです!』と懇願して面談してもらえることに(笑)。『観光業にも興味ある?』という話から、別府駅の外国人環境客の案内所『ワンダーコンパス別府』での就職が決まったんです」。
自分の直感に迷うことなく行動を起こした結果、やりたい仕事に出会うことができた圭菜さん。観光案内所には外国人のみならず、地元の人たちや日本人観光客も訪ねてくる。地元のおじいちゃんおばあちゃん達や外国人観光客が繰り広げる珍事が起こったりと、毎日がとても刺激的で楽しいと満面の笑顔だ。「私を雇ってくれた今の職場に感謝しかありません。無理することなく、私らしく働ける今の仕事が大好きです!」。
一度きりの人生だから、気になることは
全部体験してみたい!
今後の夢を聞いてみた。
「シンプルだけど、家族で暮らしたいです。息子と一緒に居られる時間は限られていて、すごく尊いなと思うんです。単身赴任の主人に対しては、離れているからこそ感謝や尊敬の気持ちが一層強くなりました。そんな感謝の気持ちを忘れずに『私も人生楽しむから、君も自分の人生を思いっきり楽しんでね!』って息子にも伝え続けていきたい。一度きりの人生、やってみたいこと、気になることは全部体験したいですね。これからもライフステージの変化が色々あると思うけど、自分の気持ちを大切に、無理のない範囲で、でもちょっとは挑戦のスパイスを効かせつつバランスを取りながら、心地よく、そしてたおやかに生きていきたいです。沢山やってみたいことはありますが、子どもが一人立ちして、時間とお金の余裕ができたら、また何らかの形でアラブ・イスラーム関係の研究に関われたらないいな…って思っています」。
この記事のライター:安達博子
取材が楽しすぎて、あっという間の時間だった。めまぐるしく変化するライフステージにも負けず、前進あるのみで突っ走ってきた彼女のみなぎるパワー! これまでの経緯を改めてざっくり読み返してみても、すごくないですか? 鹿児島で育つ→中1~3年サウジアラビア→大阪の大学で外国語を学ぶ→途中、カイロの大学へ→大学院(途中、カイロ大学へ)→東京の総合化学メーカーに就職→結婚→青森へ引っ越し→東日本大震災経験→出産→大分へ引っ越し→苺パック詰めパート→セラピスト資格取得→観光案内スタッフ…って。どんな環境に置かれても常に自分を見失わず、好きなことに正直だった圭菜さん。ゆったりしたしゃべり口調からは、一見おしとやかな女性なのかな?と感じるけど、そのギャップも魅力的なのです。「私、貪欲なんです!」と堂々と言える人、私大好きです。だってかっこいいもん! これからも、大分に来た外国の方に、大分・別府の良さを伝えていってくださいね。