想像もつかず不安だった
未踏の地での農業・結婚・出産
取材時に行動を共にする仕事の相方と、いつも目的地までの束の間のドライブを楽しむ。「自然がいっぱいで空気が美味しいな~」と相方の運転で車を走らせ、臼杵市野津にある「槌本農園」を目指す。その快適ドライブが一変、途中から悲鳴に変わる。「ひぇー!道が狭い!車が落ちる!(涙)」。半泣き状態の私たちの車を、無事目的地まで誘導してくれたのが、槌本詩織さん。「槌本農園」の奥様だ。こんな狭い山道を通ったのはおそらく初めて! そのくらいの結構な山奥の集落に、槌本さん一家が暮らす家があった。
詩織さんのふっくらしたお腹に気づいた私たち。「いつ産まれるんですか?」「もう2ヶ月もないです。8月末です」。生命を宿す妊婦さんは、神秘的な美しさを纏うと聞く。優しい風が吹き抜ける、ナチュラルな雰囲気の可愛らしい女性…。詩織さんに出会った瞬間、そう感じた。
詩織さんは千葉県出身。東京の大学で管理栄養士の資格を取得し、埼玉の病院で管理栄養士として3年間働いた。通学、通勤は千葉の自宅から通った。彼女の人生に大きな影響を与えることとなるご主人の俊貴さんは大阪府出身。東京の大学へ進学、詩織さんと同じ大学ではないものの、知人を介して知り合い、そこからお付き合いが始まる。大学卒業後、俊貴さんは「農業をやりたい!」と詩織さんに打ち明ける。
「私の親も会社員だし、周りに農業をしている人もいなかったので、その話を聞いた時は正直ショックでしたね。『会社員で働いてくれたらいいのに…』とも思いました。でも、やると決めたら聞かないタイプなので、その時からちょっと覚悟はしました」。
高校まではサッカー、大学ではラクロス部のキャプテンを務め、根っからのスポーツマンだったご主人。会社で働くよりも、体を動かして自分で稼いでみたいという想いが強かった。その気持ちに火をつけたのが「100年ごはん」という一冊の本との出会い。本の中で登場する臼杵市で農業をやりたいという想いが募り、臼杵市での移住モニターツアーに2人で参加することに。「九州自体も初めて訪れたんです。だから最初は全然想像もつかなかったんですけど、来てみると、皆さんいい人ばかりで。それでちょっと安心しました」。
2016年に有機農業の研修生として地域おこし協力隊に任命された俊貴さんが、ひと足先に臼杵市に移住。その1年後に詩織さんが移住し、臼杵市で結婚式を挙げ、晴れて夫婦となった。「大阪や千葉から親戚がくるので、別府での結婚式も候補に上がったんですけど、旦那が臼杵市をみんなに知ってほしいからと、臼杵市内の料亭で和装での結婚式を挙げました」。どこまでも臼杵市への愛が深い2人だ…。しかし、全くの知らない土地に嫁ぎ、しかもまだ先が見えていない農園を営むという決断に、詩織さんは戸惑いや不安はなかったのだろうか。
「もともと私も旦那も、友達が少ないタイプなので、友達と離れる寂しさを感じることはなかったんですが、親と離れることへの不安はありました。2018年に長男を出産した時は、里帰り出産はせず、臼杵で産みました。出産後に母親が1ヶ月くらい泊まり込みで手伝いに来てくれました。母が千葉へ帰った後『もういないんだ…』と不安と寂しさが押し寄せて、あの時はちょっと泣きましたね」。
出産を経験すると、母の存在のありがたさを痛感する。近くにいればいつでも会えるが、遠く離れているとそうとはいかない。お母さんが帰ってしまった後の詩織さんの気持ちを想像すると、どれだけ心細かっただろう…と胸が痛くなる。「その後の1ヶ月くらいは、どうやって子育てして過ごしたか覚えてないんです(笑)。でも子どもが2ヶ月くらいになってから、地元の子育て支援センターに通うようになり、同じ境遇のお母さんたちとも知り合いになって、今でも繋がっているお友達もできました」。
待ってくれている人の笑顔は
野菜作りの励みになります
農家の朝は早いというイメージがある。詩織さんは一体、どんな毎日を送っているのだろうか。
「主人は日の出とともに畑に行くので早いですが、私は大体朝6時くらいに起きて、7時半くらいに子どもを保育園に送って、そこからは保育園のお迎えの時間まで出荷作業の手伝いをしてます。忙しい時は収穫も手伝ったり、畑の管理作業をしたり、できる範囲で手伝っていますね。ほぼ毎日、野菜の出荷作業があるので、365日お休みはほぼないですね。ベストな状態で野菜を収穫しないといけないので、季節によっては1日2回収穫する野菜もあるし、天候や野菜の状態、お客様の注文に合わせて動いているので、1年間通して決まったお休みというのはないんです。仕事の合間を見て、掃除や洗濯、子育てなどの家事をこなしています」と詩織さん。かなりハードな日々を送っている様子だ。
研修生として働いていたご主人が有機農家として独立したのは1年前。最近、売り上げも見込めるようになった。槌本農園の畑は、自宅から車で5分くらいの場所に点在している。少量多品目生産で、年間約100種類以上の野菜を作っているそうだ。1町5反(ちなみに1町は1ha 100m×100m=10000平方メートル。1反は10a 1000平方メートル)の広さを有する畑を二人で回しているというのだから、どれだけ忙しいか想像がつく。そんな中、週に2回、管理栄養士として市役所でパートの仕事にも出ているそう。そんな多忙な毎日を送る詩織さんの自分の時間はほぼ皆無。ストレスは感じないのだろうか?
「すごく忙しくて大変ですけど、でもやっぱりいい仕事だなって思います。自分たちで作った安心安全で新鮮な野菜を子どもたちに食べさせてあげることができるし、畑を走り回って伸び伸び遊ばせることもできるし、自分で収穫した生の野菜をかじって食べることもできるし…。そういうのを見ると、自然の中での貴重な原体験を子どもたちにさせてあげられる恵まれた環境だなと感じています。それと、野菜を届けたお客さんから『美味しいね』と言ってもらえると、すごくやりがいを感じますね。待ってくれている人の喜ぶ顔が見えると、美味しい野菜を頑張って作ろう!と思えて、仕事への活力にもつながります」。
臼杵の人たちはみんな優しい
私もここに来て優しくなれた気がします
化学合成農薬、化学肥料を使用しない有機農業。虫がつけば手で除去し、防虫ネットなどの資材を購入したりと、手間もかかり投資金額も大きい。販路も自分たちで開拓しなければならないので、とても大変な仕事だ。しかし、野菜作りへの情熱を持って農業と向き合い、向学心を忘れないご主人のひたむきな姿を見ると、そんな苦労も忘れてしまうと詩織さんは言う。
「旦那の頑張っている姿を見ると、私も休んでられないなって思うんです。たくさん勉強して、それをどんどん吸収して、野菜作りが上達しているのが見ていて分かるんです。旦那への尊敬の気持ちがあるから、一緒に頑張っていこうと思えるし、支えたいと思うんです」。
地域の人たちの優しさもまた、詩織さんをはじめ、槌本さん一家の支えになっている。「長男は、この集落では約30年ぶりに産まれた子どもなんです。地域の宝だと近所の人たちは本当に大切にしてくれます。埼玉の病院で働いていた時は、人間関係で悩むこともありましたが、ここではみんな優しいので、臼杵市に来て、私自身も優しくなれた気がします」。
これからの詩織さんの目標を聞いてみた。「まずは元気な赤ちゃんを産んで、2人の子どもをしっかり育てていくことですね。自分が元気じゃないと子どもがちゃんと育たないという話を聞いたことがあるので、なるべく頑張りすぎず、適度に手を抜きながら、子どもにしっかり向き合って育てていきたいです。長男の時は出産後、半年くらいで仕事に戻ったんですが、おんぶ紐で子どもをおぶって作業をしてました。子どもとのスキンシップは大事だと思うので、今度生まれてくる赤ちゃんもたくさんおんぶしてあげながら、旦那をサポートしていきたいです」。
まさに内助の功。28歳と言う若さにして、どこか昔の日本の母を思わせる詩織さんに、尊敬の念さえ湧いてくる。取材したのは、7月初旬の暑い頃。しばらく時間が経ち、今この原稿を書き上げたのだが、赤ちゃんは元気に産まれただろうか? そう思いながら槌本農園のインスタグラムを開いて見た。「8月26日に元気な男の子が産まれてきました」と、詩織さんと2人のお子さんが笑顔で写っていた。
年齢を重ねると、人の生き方が顔に出るという。だけど、この詩織さんの笑顔を見て年齢は関係ないのだと思った。淀みのない綺麗な笑顔。彼女が支える野菜一筋のご主人と共に、これからも待っている人たちを笑顔にする、最高に美味しい野菜を作っていってください。
この記事のライター:安達博子
槌本夫妻に出会い、その二人の笑顔を見て「なんて心が綺麗な人たちなんだろう」と感じました。焼けた肌に真っ直ぐな笑顔が眩しく、こんな若い人たちが次の日本を担ってくれるなら安心だ…と、50歳目前の私はどこか安心感を覚えたのです。帰り際にいただいた、愛情たっぷりのお野菜はみずみずしく、夜ご飯のご馳走となりました。噛みしめるたび、野菜の美味しさが口いっぱいに広がり、二人が手塩にかけ一生懸命作った野菜だと思うと、一層美味しく感じました。槌本農園で作られた愛情たっぷりの野菜が、一人でも多くの人に届くといいなぁ。新しく槌本家に仲間入りした次男くんの健やかな成長を願っています。野津の自然といい、お二人の爽やかな笑顔といい、心洗われた一日となりました。