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2022.05.17

確実にダブルケアラーは存在します
私の経験をその人たちのために活かしていきたい

佐藤智子さん[ダブルケア支援サービス]

今回のママ:
佐藤智子さん[ダブルケア支援サービス]
36歳・大分市出身・大分市市在住
(小学校4年生・小学校2年生・幼稚園年長・2歳)の三男一女の母

常に子育てへの悩みが尽きない私たち…。それだけでも手一杯なのに、加えて親や親族の「介護」を担う必要が出てきたら…? 晩婚や晩産傾向にある昨今、「育児」と「介護」を同時進行する「ダブルケア」に追い込まれる子育て中の家族が増えている。今回取材させていただいた佐藤智子さんも、かつては、小さなお子さんを抱えながら、実母、叔父、祖母の介護を担ったダブルケアラーだった。まだまだ世間には浸透していない「ダブルケア」の実態を少しでも知ってほしい。そして同じ経験者の支えとなりたいと『ダブルケア大分県 しましまかふぇ』を設立し、代表として活動している。

まさに青天の霹靂
元気だった母が病に…

取材におじゃましたのは、智子さんのご実家。今は亡き、お母様との思い出がたくさん詰まった、彼女にとって守るべき大切な場所でもある。母屋の玄関と尋ねると「今日はよろしくお願いします!」と、智子さんが出迎えてくれ、別棟の離れに案内してくれた。ここが、現在活動の拠点となっている「しましまかふぇ」だ。長身のすらっとした女性で、ハキハキとした話ぶりが好印象だった。

「実は、私…、去年の5月まで釘宮という苗字だったんです」。挨拶を交わした後の突然の意味深な発言に、一瞬〝離婚〟という2文字が頭をよぎった。しかし話を進めるうち、そうではないことがわかってきた。「母が亡くなって、もう4年が経ちます。この4年間で母を看取り、続けて母屋で暮らしていた叔父と祖母を看取りました。その間、地域のいろんな人たちと話す機会があって、戦争時代を生き抜いた祖父母がこの家をどんな思いで建てたかなど、私のルーツの話を聞かせてもらったんです。そこから、私の代で佐藤の姓を途絶えさせるわけにはいかない!と使命感に似た感情が生まれてきて…。生まれ育った家や姓を絶やさず大事にしたいという思いから、形式上、一旦離婚をする形をとって再婚し、主人に私の苗字を名乗ってもらうことになったんです」。その後の話を聞いていくうち、人間の生死を間近で見てきた智子さんだからこそ「自分の姓を、家を、継承すること」にこだわった意味がわかった気がした。



地元の小学校、中学校を経て、鶴崎工業の産業デザイン科へ進学した智子さん。学生時代はバレーボールに打ち込むスポーツ少女だったそうで、共通点を見つけて思わず喜んだ(筆者も生粋のバレーボーラー)。173センチの長身はなるほど、そこで活かされていたわけだ。高校卒業後は、別府溝部学園短期大学の服飾デザイン学科に進学し、卒業後は定職につかずにバイト生活を送っていた。「でも、やっぱり洋服が好きだなと思って、アパレルの会社に入社しました」。その後、25歳で結婚、26歳で妊娠。27歳で出産し育休を取得後、職場復帰する予定だったがその直前に第二子の妊娠が判明。妊娠しながらの復職に不安を感じ、やむを得ず退職した。しかし赤ちゃんは残念ながら流産してしまった。出産後は子育てに専念。29歳で第二子を出産した。

「初めての育児だったし、第一子と二子の間が2歳差なのでしばらくは子育てに専念することに。子育てが落ち着いたら、お母さんに手助けしてもらいながら、パートでも出ようかな…と思ってたんです。そんな矢先に母が病気に…。私が29歳、母が62歳の時でした。2人の子どもがそれぞれ2歳と生後4ヶ月の時でした」。

看護師・助産師としてバリバリ働いていたお母様は体調を崩し、病院で検査を受けるとゴルフボール大の大きさの脳腫瘍ができていることが分かった。すでにステージ4だと宣告された。「頑張り屋さんで責任感の強い母だったので、仕事は可能な限り行くと言うんです。病院の先生からはいつ癲癇発作が起こってもおかしくない状態だと言われ、車の運転はしないように言われました。それで、私は小さな子どもを連れて、母を職場まで毎日車で送迎しました」。そこから、智子さんのダブルケアラーの日々が始まった。

佐藤智子さん[ダブルケア支援サービス]

母から教えてもらった命の大切さ
最後まで感謝を伝えたかった

脳腫瘍が発覚した後、通院と入院、自宅介護を繰り返しながら、時には東京まで治験を受けに行っていたお母様。その際の付き添いは、母親の姉にあたる叔母が担ってくれた。

「本当は私がついて行きたかったですけど、子どももまだ小さいし、主人も長期出張で不在なのでほぼワンオペ状態だったので叔母を頼りました。治療を何もしなければ余命1年と言われていたけど、2年間生きることができました。治療の予後が悪く、言葉が喋れなくなり、右半身麻痺になって、しっかり者の元気なお母さんがどんどんお母さんじゃなくなっていきました。最終的には、家に帰りたいというので在宅医療を選択しました。ヘルパーさんやケアーマネージャーさんに助けてもらいましたが、あの日々はやっぱり辛かったですね…」。

これまでに多くの命を取り上げてきた助産師の仕事に誇りを持っていた。仕事が大好きだった母が私たちに残したいものはなんだろう…そう考えた時、自分の身を以て、命や生き様を私たちに教えたいのではないだろうか…そう感じたと、大粒の涙を流しながら智子さんが話してくれた。



「最後まで、命の大切さを教えてくれてありがとうって伝えられると思ったんです」。

奇しくも、私も母を癌で亡くした。病床に伏す姿をみて、私も智子さんと同じことを考え、当時小さかった子どもには母の弱っていく姿を包み隠さず見せた。同じ境遇の経験者として、胸が引き裂かれるほど苦しく、あの時の救いようのない気持ちを思い出した。私も一緒に泣かずにはいられなかった。
 
介護を続けていた2016年9月に第三子を出産した智子さんは、妊娠9ヶ月の大きなお腹で、右半身麻痺のお母様をお風呂に入れていた。出産後も、生後間もない赤ちゃんを抱えて24時間つきっきりで介護をしていた。「このまま続けたら智子さん、あなたが死んでしまう。だからお母さんに施設に行ってもらおう」。そんな姿を見かねたケアーマネージャさんが言った。しかしお母様は首を縦にふらなかった。介護が原因で仲違いをしていた叔母にも、介助のお願いをすることができない状態だった。様々な悪循環から、家庭内には不穏な空気が流れていた。

「ある日、母をお風呂に入れてたら『こんなはずじゃなかったのに…』と母が泣き出したんです。家の空気を感じていたんでしょうね。人一倍頑張り屋さんだから、人に迷惑をかけたくなかっただろうし、ましてや娘にこんな思いをさせたくなかったと思います。その気持ちが痛いほどわかって二人でお風呂で泣きました。なんでこんな目にあわなきゃいけないの? 孫との楽しい人生が待っているはずなのに…と、本当に病気が憎かったです」。

智子さんが高校3年生の時、お父様を不慮の事故で亡くしている。シングルマザーとして、看護師・助産師の仕事をしながら苦労して智子さんを育ててきた人だった。そんな日々に終わりが訪れたのは、病気が発覚してからちょうど3年後の春。お母さんは空へと旅立った。その後の3年間で、同居していた叔父、そして祖母を介護し、智子さんが看取った。トータルで6年間のダブルケアを勤め上げた。



介護と子育ての同時進行…。十分な支援の情報もない中、手探り状態の毎日を必死に生きてきた智子さんだが、唯一子育てへの後悔があると言う。

「長男は自閉症スペクトラムなんです。介護に追われ、愛情形成が育まれる大事な時期に、子どもたちに色々してあげられなかった。近くの公園にさえ連れて行く余裕もなかった。要介護者のスケジュールを中心に動くので、その時間に振り回されて、どこにも連れて行ってあげられなかったんです。周りの家族はレジャー施設とか公園とか、楽しい思い出を作っていて、そこと比べることも。少しでも帰る時間が遅れてしまうと母親の排泄物で家の中が大惨事になっていたりで、遅れて帰宅することに罪悪感を感じていました。そんな毎日だったので、子どもにたくさんの我慢を強いていたと思うんです。多分、私自身もいつも怒ってたと思うし、介護の代償を一緒に背負わせてしまったと自分を責めていました」。

現在は状況も落ち着き、友達もたくさんできて楽しそうな息子さんの姿を見ることが何より嬉しいと智子さん。だけどきっと、幼いなりに息子さんたちは母親が必死で頑張っている後ろ姿をちゃんと見ていたと思う。

夢は、いつの日か
ダブルケアの窓口ができること

全てのエピソードをここで書き綴ることはできないが、想像を絶する日々だったと思う。一人っ子の智子さんが唯一頼れるのは、叔母さんと義母さんしかいなかった。行政のサポートを借りたいと思っても、助けてほしい時にすぐに手を差し伸べてくれる支援はなく、申請手続きや支援員が見つかるまでにどうしても時間を有した。「警備会社みたいに、ボタンを押してすぐに助けに来てくれたら…」。

『育児 介護 辛い 同時』というキーワードで検索しても、大分市・大分県での情報はヒットしなかった。そんな時に知ったのが「ダブルケア」というワードだった。「その言葉を聞いて、私はダブルケアラーだったと知ったんです」。平成28年に内閣府調査により公表された数字によると、未就学児の育児と介護を同時に行なっているダブルケアラーは25万人と推計され、そのうち8割が30代から40代の働き盛り世代、うち約66パーセントが女性だと言われている。「まずは、ダブルケアという存在を知ってほしい。そして当事者がそのことに気づいてないということが一番の問題だと思うんです。まずは周知を促す活動と、情報交換したり、気持ちを話す場所を作りたいと、ダブルケアラーが集える「しましまかふぇ」を作ったんです」。



自分の経験が誰かの力になれば…、その思いに居ても立っても居られなくなった智子さんは、お母さんの四十九日を待たずして行動を起こした。ダブルケアの活動団体を探したり、行政に問い合わせてみたが、大分での情報は皆無だった。

「今後、ダブルケアラーは増えていきます。でも、介護と子育てが絡み合う問題なので、それぞれに窓口がある行政での総括は難しいようです。だけどそこを行政が担ってくれたらすごく助かるのに…と経験したからこそ思います。母の介護でお世話になり、活動を始める際に相談に乗ってくれた地域包括支援センターの方が『これからあなたみたいな人が絶対に増えていくから、次に続く人たちのために活動を諦めないで!」と言ってくれて、エンジンがかかりました」。

現在はこの場所で、情報交換をしたり、相談に乗ったり、活動のための作業を行ったりしている。また地域の人たちが集えるコミュニティの場として、飲食の提供や販売で活動費をまかなっていきたいと今後の目標を話してくれた。

ダブルケアの周知を測るため、今年の2・3月に大分市、別府市、臼杵市で、当事者や経験者からお借りした写真とエピソードを展示したダブルケア写真展を開催した。反響もあり、様々な人たちとの繋がりもできた。

「まずはダブルケアという社会問題があることを知ってほしいです。これまでの活動を通じて、確実に当事者がいるということを実感しています。本当の渦中にいる人たちは毎日綱渡り状態で、助けて欲しいと声を上げる余裕さえないんです。その人たちを救い上げたい。でも私たちの力だけでは限界があります。専門職の人や行政の力の介入が重要になってくると感じます。私の夢は、行政にダブルケアの窓口が開設されること。そして、いつか会社を立ち上げ、家事や託児支援などで、ダブルケアラーの人たちを支援できる仕組みを作りたいです! 微力かもしれないけどやって見ないとわからないですもんね。いろんなことにチャレンジして行きたいと思ってます!」。

佐藤智子さん[ダブルケア支援サービス]

ダブルケア大分県 しましまかふぇ

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この記事のライター:安達博子

智子さんと話していて、私も当時、ダブルケアラーだったんだということに気づかされました。私にはサポートしてくれる人が周りにたくさんいたから救われたけど、智子さんのように一人っ子だったり、親族が近くにいない状況でダブルケアが始まるとなると…。本当に苦しかっただろうなと思います。そして「よく頑張ったね!」と抱きしめてあげたい。同時に、一人娘の我が子が、私たちを介護する時期にダブルケアラーになる可能性が高いという現実を突きつけられました。智子さんの経験は、本当に壮絶だったと思います。でも、この経験を通じお母さんがきっとたくさんのことを教えてくれたんだと思うのです。辛い経験を学びにして、誰かのために活動をしている今の姿を、空から見ているお母さんはきっと喜んでいるはず。いつも近くにいて、笑顔で応援してくれていますよ! 私も亡き母に感謝してます。だって、こうやって智子さんと気持ちを共有できたから…。いつか一緒にバレーボールしようね!(勝手に先輩ヅラ・笑)

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