2018.09.28
佐伯 和可子さん(一般社団法人若葉会 代表理事)
「学校に行きたくない…」。年々増加傾向にあるという不登校の児童・生徒数。不登校をきっかけに勉強する場を失い、高校への進学・就職を諦め、社会でも孤立する若者が相次いでいる。そんな不登校生に学習の場を提供し、力になりたいと、2011年に新しい形の教育機関「ハートフルウェーブ」、今年の4月には、自閉症や発達障がいなど療育が必要な子どもたちが学べる「カラフルビーンズ」を立ち上げた、若葉会代表の佐伯さん。自らも発達障がいの家族を持つママでもある。今日に至るまでの紆余曲折を経てもなお、精力的に活動を続ける佐伯さんに話しを伺った。
ーフリースクール「ハートフルウェーブ」について教えてください。
不登校の小学生~高校生が通うフリースクールです。その子にとって必要なものを個別で考え、「やってみたい!」という思いを全力で応援しています。具体的には、学校に通うのが苦しい状態の子どもたちが様々な活動を通して学ぶ機会を与える「フリースクール」、家族との距離を見直したい子どもたち、生活リズムを取り戻したい子どもたちのための「宿泊サポート」、勉強を教える「家庭教師・個別指導」、放課後や長期休暇中に色々な体験活動ができる「放課後クラブ」という、不登校生をサポートする事業を中心に行っています。
ー今年の春にオープンした、隣接の「カラフルビーンズ」とはどのような施設なのですか?
発達障がいや自閉症など、療育が必要な子どもたちが自活できる力を育むお手伝いをする学校です。フリースクールを経営する中で、発達障がいの生徒さんが増えてきたことで、学習支援が専門だった私は限界を感じていました。フリースクールの枠を超えるには専門家の力が必要だと、言語聴覚士や心理士のスタッフを加え、授業や受験指導、言語訓練、放課後等デイサービスなどのサポートを行っています。
ーフリースクールを立ち上げたきっかけは?
APUで経営学を学んでいた18歳の時、バイトとして家庭教師を選んだのですが、初めて教えた子が不登校のお子さんだったんです。その子と出会い、不登校になると学習する機会が減ることや、高校進学も諦めなければならないという現実を知りました。色々な巡り合わせでたまたま不登校になっただけなのに、それによって将来が大きく変わることに疑問を感じ、不登校生専門の家庭教師を始めたんです。ちょうど「登校拒否」から「不登校」という言葉に変わり始めた頃で、言い方は悪いかもしれませんが引く手数多で、大学院に進学してからもずっとこのアルバイトを続けていました。東京の就職が決まり大学を卒業したので、家庭教師を辞めることになったんですが、その後半年間くらいは子どもたちとのメールのやり取りが続きました。ある日、教え子の1人から電話に着信があり、電話に出られなかった私は後日、その子が自殺して亡くなったことを知りました。あの時、私が電話を取っていたら死ななくて済んだかもと、ずっと後悔していました。あの子たちを放って大分を出たけれど本当にそれで良かったのか?と自責の念に駆られ、仕事を辞めて大分に帰ってきました。ちょうどその時期に大分にあったフリースクールがなくなり「じゃあつくるしかないよね!」ということで、学習塾の枠を超えたフリースクールの設立を目指すことになりました。通信制高校のことを知るために通信制高校で働いたりと、私自身も必要なことを学び、フリースクール「わかば」を立ち上げました。それが10年前です。その2年後に結婚して、出産を機に半年間一旦閉校。出産後に再開し、立ち上げたのが「ハートフルウェーブ」です。
ーお子さんが産まれてから立ち上げたのですね。大変だったのでは?
なりふり構わず、首も座らない我が子を連れて仕事をしていました。そんな時、主人が発達障がいの診断を受けました。子どもが産まれたことへの重責や、私が家庭を二の次にして仕事を優先していたことなど、たぶん色んな要因があったと思います。それに加え、子どもが1歳半検診の時に発達障がいという診断を受けました。私は不登校生に関わることで、大人よりも子どもを優先する人生を歩んできました。言ってみれば、他人の子どもを、です。母親からは「他人の子どもを育てている場合じゃない! 自分の子どもをちゃんと育てなさい。出来ないなら里子に出しなさい!」とまで言われました。支援の仕方は千差万別で、その子に必要なものを助成金が出るまで待っていたら1年があっという間に過ぎてしまう。思春期の1年間はとても大切で、関わり方一つでその後の人生が大きく変わるんです。だから、今できる最大限のサポートを続けていたら、いつの間にか赤字になり、業績不振が続いていました。出産前は、深夜のアルバイトをしながら足りない分を補填していたのですが、子どもが産まれたらそれも出来なくなり、旦那も仕事を辞めていたので経済的にかなり厳しい状況でした。貯金も底をついて、閉校を余儀なくされた時、保護者の方が「最後にこの方を頼ってみて」と、大分大学の福祉課の教授を紹介してくれました。
ー極限まで追い詰められた状況だったんですね…。
東京の就職、そして息子の出産…。二回も子どもたちを途中で見放してしまったという後悔があったので、この場所がなくなった後の居場所だけは作ってあげないと!という一心で、教授を訪ねました。事情を話し、子どもたちの行く先を教えて欲しいという話をしたら「何十年も福祉を生徒に教え、それでお金をもらってきたけれど、実際に私は、救いを求めている子どもたちに何もしてあげられない。だから、あなたに託すよ」と言って、教授は通帳のお金を全部私にくださったんです。初めて会った私にです…。本当に感謝しかありません。このご縁があったから、今もこうやって活動を続けることが出来ています。教授には、少しづつでもお返しできたらと思っています。
ー奇跡の出会いですね…。佐伯さんがそこまでして、子どもたちを助けたいという思いはどこからきているのでしょうか。
私の実家はお寺なんです。昔は寺小屋として子どもたちを育てていた場所でもあります。そこで生まれ育ったというのも影響していると思います。幼少期から「世のため人のため、私は何ができるだろう」と自分の使命を常に模索していた気がします。お寺ってプライベートゾーンがないんですよ。朝起きたら誰かいるし、庭もいつも誰かが通っているみたいな(笑)。そんな場所で育ったので、子どもたちがここで寝泊まりして、常に周りにいる環境は全く苦じゃないんですよね。
ーここで働いているママもいるようですね。
はい、います。スタッフや子どもたちのご飯を作ってくれる人を探していた時に、義妹が仕事を探していたので給食スタッフとして手伝ってもらうことになりました。彼女も2人の子どものママですが、一番下の子はまだ小さいので、仕事に連れてきています。いつか、ママたちが助け合いながら仕事ができる職場になれたらいいなぁという思いもあります。私も息子を連れて職場に来ていますが、ここに来る子どもたちと時間を共有することで、たくさんのことを学んでいると思います。そんな子どもたちが増えることで、不登校生は暗いというイメージや、発達障がいの子どもは乱暴という間違った知識で偏見を持つ人も少なくなり、何十年後の社会が少しでも変わればいいなと願っています。
ーこれからの夢や展望を教えてください。
不登校生と関わって16、7年になりますが、その都度、その子のために何ができるかを考えて進んできたので、10年後どうなっていたいというのは今でも考えてないんです。これからも、その時その時でやれる精一杯のサポートをしながら、前に進んでいきたいです。家族の大切なお子さんをお預かりして教育の一環を任せていただくことで、保護者の方の肩の荷が少しでも軽くなればいいな…という思いもあります。夫婦だけで育てるという責務から少し解放されて、みんなに育ててもらうという意識に変わり、二人三脚から伴走者付きの三人四脚になってお子さんの成長を一緒に担わせてほしいです。不登校生を抱え、どこに相談していいか分からないと悩んでいる方もいるのではないでしょうか。「辛いことを全部吐き出して、それを解決しましょう!」と、本当に救って欲しい人たちを救える、民間だからできるサポートをこれからも続けていきたいです。うちの施設は、鍵も閉めませんし、敷地に囲いはありません。子どもたちが自分で考え行動することで、いつか自活できる人になって欲しいという願いからです。親の次に、その子のことを考えている存在であり続けたいと思います。