2019.02.19
熊谷孝子さん(医療法人 くまがい産婦人科 理事・栄養士)
産前産後の心身を作り、お母さんになる準備から育児までをトータルに考えた専門医院をつくりたいと、平成4年5月に大分市横塚に産声をあげた「くまがい産婦人科」。1998年にユニセフ・WHOより、日本で13番目、大分初の「赤ちゃんにやさしい病院」に認定され、母性が豊かに育まれるよう、妊娠中から分娩、授乳、育児に到るまでのサポートに力を入れている。また、妊娠に悩む女性の相談にのり、出産費や検診費を支援する「円ブリオ基金」のボランティア活動も行なう。理事・栄養士、そしてスタッフリーダーとして、ママと赤ちゃんを支え続けてきたお母さん的存在の熊谷孝子さん。自身も4人のお子さんを育て上げた。27年間現場に立ち、今感じている思いを伺った。
ーくまがい産婦人科は今年で開院して27年を迎えられたのですね。
そうですね。医療センターで産婦人科の医長を務めていた主人が独立し、平成4年に開院しました。私が第4子を出産した2年後でした。助産師だった実母は私の4回目の出産の時でさえ、出産で入院している間は「甘えないで自分でやりなさい」と、手伝いにも来てくれませんでした。特に初めてのお産だった長女の時は、夫の勤務先である総合病院の入院で共同部屋だったので、食べ物を持って来てくれたり、洗濯物を持って帰ってくれる親族がいる周りの人を見て、とても羨ましく思っていました。囲まれたカーテンの中で1人ポツンと、とても辛く寂しい思いをしました。その経験から、もし身内が仕事で来れなくても、親がいなくても、同じ扱いを受け、誰もがいい産後を過ごしてほしい…という思いが強く残り、主人が病院を開業することになった時に「誰もが平等に過ごせる産院をつくって欲しい」とお願いしました。だから特別室もつくりませんでした。産後は、みんなに同じ空間が与えられ、同じようにケアをしてもらえ、個室で自分と赤ちゃんのことだけを考えてゆっくりと過ごせる産院を目指しました。
ー産前の母親学級、そして産後も引き続き卒乳までサポートしてくれるようですね。不安だらけのお母さんたちにとって、とても心強いですね。
妊娠期間中に十分な出産の準備をする全4課のくまちゃん学校(母親学級)を開催しています。お産の心構えから母乳育児、分娩のイメージトレーニングなど、他の妊婦さんとの交流を深めながら、お母さんの「母性」が豊かに育まれるお手伝いをしています。当院を卒業したお母さんたちから「産後行く場所がないし、誰とも会えないからみんなと集える場所が欲しい」と言われ、開院2年後に、くまちゃんホールという場所を建設し、赤ちゃんを連れて集える場所としてみなさんにずっと利用してもらっています。退院後も、ママ同士の繋がりが深く、先輩ママたちが妊婦さんたちの悩みや相談に乗ってくれることもあります。時にはボランティア活動に賛同して協力もしてくれます。私たちの病院にとっても、本当に心強いサポーターです! でも、残念なことに、最近は産後、再び病院に顔を出してくれるお母さんが減ってしまいました。私たちの情報発信の方法が悪いのか、スマホで情報を得られるからそれで大丈夫なのか。赤ちゃんを連れて久々の再会を果たし「元気だった?」と声をかけると涙を流すお母さんもたくさんいたんですが、最近はその光景を見る機会が減ってしまいました。ちょっと寂しいですね。伝えたいことはたくさんあるのに、それが伝えられていない…と感じますね。
ーボランティア活動というのは、「円ブリオ基金」のことですね。
経済的に困っている人や、様々な問題を抱え出産したくてもできないと悩む女性たちがいます。彼女たちが安心して赤ちゃんを産めるように、そして誰もが平等に出産の喜びを得られるように…という思いで、円ブリオ基金の活動を始めました。どんなに困っていても、誰かが手を差し伸べれば安心して赤ちゃんを産むことができる。私は親ではないので、その先のフォローまではできないけれど、妊娠がわかり、どんな過酷な環境の中でも「赤ちゃんを産みたい」と決断した時、不安を抱えなくていいよう一緒に問題を整理しながら、赤ちゃんが元気に産まれてくるようにできる限りのサポートをしています。赤ちゃんが産まれても、母乳があればお金もかからず命を繋げることができるんです。一過性ではなく、そういう支援を続けていくことが、私たちが大切にしていることであり、いわば信条です。
ー最近、実際に支援を受けられた方はいらっしゃいますか?
今月は、支援の必要性を感じた2人が、当院で無事に出産しました。それぞれの女性が複雑な事情を抱えていました。こじれたものをそのままにしているから先が見えないんですが、誰かが一つ一つ、問題を紐解いてあげれば小さな光は見えてくるんです。赤ちゃんとの出会いで何かを感じてもらいたいし、この子が産まれて来たことで生き直してもらいたいなと、切に願っています。出産してすぐ離婚する夫婦が最近多いように感じます。2人だけでいた時に感じていた、自分だけ我慢すれば…という気持ちが、赤ちゃんが産まれたことで守るべき存在ができ、心変わりするのだと思います。DVや金銭問題など、追い詰められている女性もたくさんいます。大きなことも、完璧なこともできないかもしれないけれど、その時々で精一杯のことをやり、守れる人が守ってあげたい。幸せの道が開けると信じて…。ただそれだけなんです。
ー熊谷さんの活動の源は、ご実家の助産院が影響しているんですね。
そうですね。正直、仕事熱心だった母親のことは好きではなかったですが、祖母や母親の助産師としての考えは、今の私のベースになっています。私が小学校に上がる前、実家に黒塗りの立派な車がやってきました。しかも運転手さん付きで。車に乗れる!と喜んでいたのですが「あなたたち子どもは乗せないよ。これは患者さんを家まで送るための車だから」と祖母は言いました。当時はまだ保険制度も整っておらず、出産一時金も出ない時代。助産院で出産してもお金が払えない人も多く、その代わりにと米や野菜を病院に納めていた時代です。そんな昭和30年代に、命を繋いだ女性が誇りを持って家に帰れるように…と、車を買ったのです。当時としては画期的なことだったと思います。そんな感覚を持つ祖母を、当時私はかっこいいと思いましたし、今でも尊敬しています。命を繋ぐ大役を終えた女性が平等に出産の幸福感に満たされるように…という祖母や母の考えが、今の私に根付いているんだと思います。
ー出産はゴールではなく、スタートですよね。出産後も様々な責任や重圧がお母さんにのしかかってきます。
赤ちゃんは泣くこと以外、何もできない存在です。その存在に、自分の時間も気持ちも全て捨てて立ち向かっていかなきゃならないんですよね、母親って。親子関係や夫婦関係も含め、自分の生き方が全部突きつけれる最たるものでもあります。いくら周りがサポートしてくれても、おっぱいは自分にしかないという特別な孤独感を感じる人もいるかもしれません。でもそれを乗り越えた時の自信は何にも代えがたいものです。もし子どもが荒れて不安定な時期がきても「とことん向き合ってきたから、どうなっても大丈夫。何があっても私はそれを受け止める!」という、‘根拠のない自信’を持って欲しいんです。
ーくまがい産婦人科では、完全母乳を推進していますね。
赤ちゃんが産まれて1週間は特に、母乳にとって大事な時期です。母乳が出ない3日間を根気よく吸わせることで、赤ちゃんも‘待つ’ということを覚え、飲ませれば飲ませるほど赤ちゃんへの愛情も深くなり、おっぱいも出るようになっていき、母性も育っていきます。最近では「こんなきついの嫌だ」と諦めるお母さんも多くなって少し悲しいですね。時々「くまがいは完母を強要されるから嫌だ」という話も耳にしますが、完母じゃなくてもいいんです。こだわっているのは母乳という液体じゃなく「頑張る」というお母さんの気持ち。子どものためにひたむきになり、赤ちゃんとの絆を深めることが、私の中での「完母」なんです。いくら頑張っても、母乳が足りない人はたくさんいます。それで落ち込み、自分でダメな母親というレッテルと貼って落ち込む女性もいます。でも、母乳が足りない人こそ私は「あなたは完母だよ!」って言うんです。だって、最後の一滴までも与えて努力して飲ませようとしているから。真剣に赤ちゃんと向き合っているからです。出産年齢も上がり、母乳が出にくいという人も増えています。母乳が出るということは本能なので、年齢とともにそれが衰えるのは仕方のないこと。だから30代後半~40代で初産を経験し母乳で苦労している人は多いですが、人生経験が長いだけ、人としての深みがあるからしっかり子どもと向き合えてる人が多い気がします。
くまがい産婦人科
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